二人で歩いた幾春秋
2004/10/28
1962年,日本,102分
- 監督
- 木下恵介
- 原作
- 河野道工
- 脚本
- 木下恵介
- 撮影
- 楠田浩之
- 音楽
- 木下忠司
- 出演
- 高峰秀子
- 佐田啓二
- 久我美子
- 山本豊三
- 倍賞千恵子
昭和21年、復員して道路工夫となった野中義男は妻のとら江と息子の利幸、両親を抱えて苦しい生活を送っていたが、役所の小間使いとなって少しは暮らしも楽になり、義男ととら江は息子の成長だけを楽しみに暮らしていた。
『喜びも悲しみも幾年月』で燈台守の戦中の生活を描いた木下恵介、高峰秀子、佐田啓二の3人が今度は戦後の道路工夫の生活を描く。原作は河野道工が書いた「道路工夫の歌」という歌集。
「貧しさ」それは戦後日本のテーマとでも言うべきものだ。日本人のほとんどは戦後十年あるいはそれ以上を貧しさの中ですごした。そんな中で娯楽の王様として君臨した映画は大衆が共感できるような貧しさを描いた。その映画を観る人たちが自分たちの過去(と言っても数年前)を振り返って共感できるようなものを描いているというわけだ。それは大衆に迎合するとか、見ている人が自分と比較して優越感に浸るとか、そういったものではもちろんなく、映画を通して自分の贈ってきた過去を振り返り、現在と未来に明るい光を見ることが出来るような映画として作られているのだと思う。それは空想上の物語ではなく、見る人それぞれの分身のようなリアルな物語であり、スクリーン上にいるのはまさしく自分なのである。だからこの物語は昭和37年というリアルタイムで終わる。
それを今見た場合、その時代をすごしてきた人々にとってはノスタルジーの対象となりうるが、その時代を体験していない人にとっては今ひとつ実感のない物語となってしまいかねない。ただ思うのは、その時代を体験した人々が今をどう見ているのかということだ。生活だけを見れば、この映画で描かれている時代よりも今のほうがはるかに豊かで、自由で、楽に生きることが出来る。しかしそこには失われてしまったものもあるのではないかと思う。それは、人と人とのつながりや、生きがいや、充実感といったものかもしれない。もちろん、今のほうが幸せには違いないのだが、戦後の苦しい時代を生きた人々の苦労に報いることが出来るだけの未来を築くことが出来ているのだろうか?
そんな自責の念と、生きていない過去へのノスタルジーという2つの感情をを抱えながら映画を観る。
つまり、その時代を経験していない人にとってはそれほど面白くない、というか没頭してみることが出来ない映画ということなのだが、この映画にはもうひとつテーマがあるのではないかと思う。それは、映画の中にひそやかに存在する「女」というテーマだ。この映画は基本的には義男ととら江という中のいい夫婦の話だが、そこにもうひとり千代という女性が存在する。千代は義男の初恋の人で出征前に手紙を渡したものの帰ってきてみればもう人の妻となっていたという人で、今は未亡人となっている。この千代が義男を誘惑して不倫関係になるというようなことはないのだが、水面下では感情が蠢いているように見えるのだ。とら江もあっけらかんという態度をとっているし、彼らの関係がどうにかなるとは思っていないだろうが、それでもどこかで嫉妬のような感情が浮き出してくるのだ。
ここで描かれているのは理屈では割り切れない女の感情だ。木下恵介は女に厳しい。女の内心を抉るように描き出すのだ。そこにはメロドラマ的なロマンティシズムは存在しない。利幸の初恋の相手もそんな手厳しい批評に出会う。木下恵介は女に恨みでもあるのか?