肉
2004/11/5
Meat
1976年,アメリカ,113分
- 監督
- フレデリック・ワイズマン
- 撮影
- ウィリアム・ブレイン
牧場で草を食む牛、トラックに載せられセリに掛けられる。食肉業者は電話で顧客からの注文に答える。その間に牛は無数に区画された広大な牧場で、トラックで運ばれる飼料を食べてどんどん太らされていく。そして十分に太れば屠殺場に連れて行かれ、食肉に加工されていくのだ。
ワイズマンは今回、牛と羊を扱うコロラド州にある食肉業者を対象として選んだ。そこで牛が食肉としてわれわれの元に運ばれまでを記録するとともにそこに勤める人々によって行われる業務も描く。
牛は牧場で生まれ、ある程度まで育てられ、トラックでセリの会場に運ばれる。そして食肉業者に買われ、今度は食肉業者の牧場で太らされる。そのそれぞれの過程で鞭で追い立てられながら、あっちへ行き、こっちへ行きする。が、牛のほのぼのとした風貌のせいか、そこに悲壮感は感じられない。もちろん牛たちは自分たちが殺される運命にあることなど知る由もないから、悲壮感が漂うわけもないのだが、その結末を知ってみるわれわれはそのように牛がのんびりとしていることに逆に心を痛めたりするわけだ。そして同時に殺される運命にある彼らを育てる人々の気持ちを想像してみたりもする。
十分に太ったら、屠殺されるわけだが、その場面の前に牛たちが追い込まれる過程はそれまでに繰り返される過程と何の変わりもなく、そのあとに眉間の一撃で突然に牛が崩れ落ちるのを見てあっけにとられる。屠殺というシーンに向けて映画が組み立てられているものと思って、来るべきそのシーンに心積もりをしていたわれわれは、あまりのアンチ・クライマックスに拍子抜けしてしまうのだ。
しかしそれでも、首を切って血を抜く瞬間や、切り離された頭部の顔の筋肉がヒクヒクと動いているのを見ると、「殺している」という厳然たる事実に慄きを覚える。腹を割いたところでこぼれ落ちる予想よりも大量の内臓、骨を切断するための巨大な鋏、などにより、とところどころで「殺戮」を意識せざるを得ないが、しかし処理が進んで形が「肉」に近づいていくにしたがってその抵抗感は薄まっていってしまう。
その食肉処理が一段落したところ(頭を落とされ、皮を剥がれ、内臓を抜かれ、真っ二つに切られて、フックにつるされて、映画『ロッキー』を髣髴とさせる冷蔵庫に収められる)で、場面は販売部門に切り替わる。そこではミーティングが行われており、牛は数でしかない。殺される「動物」なのか、それとも「肉」なのか、その違いはあまりに大きい。
が、今度は羊の番である。再び「殺している」という現実に引き戻される。もう一度その過程を見なければならないということに気合を入れなおさなければならないという気になるが、それこそが「殺す」ことが持つ意味の重さを表しているのだろう。映画を観ながらそのことを実感として感じる。
羊の屠殺が終わると、工場の労働者と経営者との話し合いの場面が映される。そこに映されるのは労働条件の話し合いであり、その様子は他の企業となんら変わりはない。そしてさらに投資信託に関する話し合いの様子も映される。それを見るにつけ、彼らは単なる労働者、われわれと同じ労働者でしかないということが強調される。もちろん彼らを「殺戮者」と思っていたわけではないが、車を作ったりするのとはどこか違いがあるのではないかと考えたりもする。彼らが仕事をしながらさかんにナイフを研ぐ様子などを見ると、そのような印象を持つ。もちろんそれは仕事に必要なことなのだが、頭で理解することと、映像から印象付けられることは違うのだ。
そのように複雑な印象を抱えながら、映画はフェードアウトするように終わっていく。その最後に映し出されるのは商品として加工された食肉を積んで工場を出て行くトラックである。
これは映画の序盤で牛たちが乗せられてセリの会場へと連れて行かれたトラックとパラレルになっているのだと思う。つまり、最初のトラックと最後のトラックは実質的に同じトラックであり、その間の過程というのは最後のトラックによって運ばれてきた食肉を食べるわれわれに属するものだということだ。
消費者の名のもとに屠殺が行われ、「牛」はわれわれのもとに運ばれる。この映画がわれわれの心に刻み付けるのは、われわれが口にする肉というのは、紛れもなくわれわれが「殺した」動物の肉であるということだ。
それは、この業者で働く労働者たちがわれわれと変わらず、いわば「われわれ」の一部であるということによっても担保される。
ワイズマンは様々な場所で様々な人を映しながら、彼らが「われわれ」の一部であり、彼らのやっていることはつまりわれわれのやっていることなのだと言っているのではないかと思うのだ。