シナイ半島監視団
2004/11/8
Sinai Field Mission
1978年,アメリカ,127分
- 監督
- フレデリック・ワイズマン
- 撮影
- ウィリアム・ブレイン
1977年、エジプトとイスラエルとの間に設けられた緩衝地帯、国連と連動しながら国境への人や車の出入りを監視する彼らは政府機関と政府から委託された民間企業の複合組織だった。とはいえ、交戦などがあるわけもなく、彼らは故国から遠く離れ、砂漠に囲まれた土地で単調な毎日を送るだけだった。
この頃、ワイズマンはアメリカの外にあるアメリカ人の組織に目を向け、そのなかでも軍事的な要素を持つ3つの組織を被写体とした。その連続する3作品(『パナマ運河地帯』『シナイ半島監視団』『軍事演習』)の2作目。
まず、『シナイ半島監視団』という題名から、われわれはそこに戦争の危機が存在し、緊張感のある任務が行われているのだろうと想像する。映画の冒頭でその監視団(SFM)の士官らしき人が説明しているところからも、彼らの任務が重要であることが強調されているように感じる。
しかし、実際の監視団の任務は単調で、日々やることは決まっており、監視団の人々もその日常業務を特段の熱意もなく遂行していく。彼らはそこで退屈しており、映画もそれを発見すると、どんどん単調で退屈なものへと変わっていく。その退屈さは主にその業務の煩雑さと形式主義的な行動規範から来る。映画の中盤の演説で言われるように、ここで働いている人々が軍人ではなく、政府機関の職員と、委託された民間企業の人々だというのも緊張感のなさを助長しているだろう。しかし、彼らが軍人ではないからこそわれわれは彼らの倦怠と退屈さに同調することが出来るのかもしれない。
ここで行われている業務に見出せるのは、形式主義と他者への不寛容さだ。それを端的に示しているのは、エジプト側の代表者がクレームをつけに監視団の施設を訪れてきているシーンだ。話をまとめると、エジプト側は国境を通るのに国連の護衛をつけて、監視団の許可を得て、通過しなければならず、通過する時間に制限がある。エジプト側はその時間に間に合って国境に到着したが、国連の護衛車が遅れたために時間を過ぎてしまい、通過することが出来なかったらしいのだ。SFMは規則を理由に彼らの要求を突っぱねようとするが、エジプト側にしてみれば、それは国連とSFMの問題であって、自分たちには関係なく、にもかかわらず国境を通過させないのは横暴だというわけだ。SFMの代表は規則を理由とすることで押し切ろうとするが、そこで会話はまったくかみ合っていない。そして、エジプト側の代表は最後に決定的なことを言う。「私たちは人間らしく扱って欲しいだけだ」と。
この一言に、この映画のすべてが集約されている気がする。アメリカ人たちは彼らのテリトリーに閉じこもり、その外部のことはすべて規範によって形式的に処理しようとする。後半に出てくる国連のガーナ兵がSFMの施設を使用しているという件についてもそうだ。SFMは一定の基準で国連に彼らの施設(食堂や娯楽室)の利用を許可したが、国連の人々がSFM側の利用を圧迫しているから彼らの利用を制限しようという話し合いが行われる。しかし、彼らは新たな規範を作ろうと考えるだけで、国連と話し合おうとか、あるいはやってくる兵隊たちと直接に話し合おうとはしないのだ。
SFMの人々はテキサスの企業から派遣されていることもあって南西部出身者が多いらしく、自分たちのいる場所を「西部」になぞらえているようなのだが、彼らがこのシナイ半島で行っている他者に対する態度が、開拓時代の彼らの先住民に対する態度とダブって見えるといったらいいすぎだろうか?
彼らには外部に対する不寛容さがあり、その反動として内部での仲間意識を作ろうという意図が感じられる。しかし、その内部はあまりに狭い世界であり、彼らが結束しているのは外部に対抗するためだけなのである。この映画で、自由時間に彼らはテキサス流のバカ騒ぎをするが、にもかかわらずそのバカ騒ぎをする彼らの表情はどこか虚ろで、(一部を除いては)心の底から楽しんでいるようには見えないのだ。彼らはただ日常の鬱屈を晴らし、自分たちが外部とは隔絶した世界にいることを確認するためだけに騒いでいるように見える。だから賭けトランプで勝って、大金を手にしても、その表情は曇ったままなのだ。
そして、映画の最後が軍隊(国連のガーナ隊)の行進で終わるというのも、この映画が「形式」をテーマにしていることの現われではないかと思う。そして、その行進を盛装して見る招待客の中でSFMの職員だけはTシャツ姿で退屈そうにそれを眺めているのだ。
行進という「形式」が意味するのは個人の人間性の剥奪である。個を集団に所属させ、一体感という名のもとに人間性を奪って、その集団の考えを押し付ける。その第一歩に行進という形式があるのだ。
つまりSFMの人々は外部を排除し、外部に規範を押し付けることによって自分たちもその規範に縛られ、自らの人間性を失って行ってしまっているのではないだろうか。国に帰ればそのような生活ともおさらばとなるわけだが、本当にそうだろうか? 国に帰れば拒絶すべき明確な外部というのが見なくなるだけで、彼らの外部に対する不寛容さは変わらず、彼らは自らの人間性を失い続けるのではないか? ワイズマンはアメリカの外にあるアメリカを描くことで、そこに凝縮されたアメリカ社会の一面を見出しているような気がする。この作品ではそれは「不寛容」ということなのではないだろうか。