ハロウィン
2004/11/9
Halloween
1978年,アメリカ,90分
- 監督
- ジョン・カーペンター
- 脚本
- ジョン・カーペンター
- デブラ・ヒル
- 撮影
- ディーン・カンディ
- 音楽
- ジョン・カーペンター
- 出演
- ドナルド・プレザンス
- ジェイミー・リー・カーティス
- ナンシー・キーズ
- チャールズ・サイファーズ
- トニー・モラン
1963年、ハロウィンの夜、少年マイケルは包丁で姉を惨殺する。15年後の10月30日、マイケルは収容されていた精神病院から脱走、彼を危険視する担当医が彼は生れ故郷の町に向かうと考え、そのあとを追うが、その町ではすでに高校生のローリイが怪しげな男の影に気づいていた…
鬼才ジョン・カーペンターがその名を全米に知らしめ、さらに『13日の金曜日』『エルム街の悪夢』へと続く80年代の殺人鬼ブームの火付け役となったホラー映画の名作。
この映画の斬新なところは、プロローグ的な場面でいきなり殺人者の視点が使われることから始まる。マスクに縁取られて狭まった視界から覗く少年の手がナイフを掴み、扉の影に身を潜めて姉のボーイフレンドが家を出て行くのをやり過ごし、ゆっくりと姉の部屋に向かう。そのようにして被害者の視線ではなく殺人者の視線から映画を始めるところにこの映画の面白さがあり、80年代の“殺人鬼ブーム”につながる要素があった。
それはつまり、この映画の主人公が殺人鬼“ブギーマン”であるということだ。一般的なホラー映画というのは、見えない恐怖におびえる被害者が主役であり、観客はその被害者の立場に立ってその恐怖を共有することで映画を楽しむ。そこでは殺人者は憎むべき敵であり、主人公に対する影の存在であるはずだ。
この『ハロウィン』はよく考えてみれば、被害者はブギーマンの存在に気づいていない。観客はブギーマンがブギーマンとなった背景も、彼が精神病院を抜け出して生れ故郷の町にやってきたことも知っているわけだが、彼が狙いを定めた被害者たちは彼がいることすら知らず、殺人事件が起こるだろうという予測すらつけようがない。ただローリイだけが怪しい車とそれに乗る男の影に気づいているわけだが、彼女だってそれが殺人鬼で、自分を殺そうとしているのだとはまったく気づいていないのだ。
だからどうしても、この映画はブギーマンの視線から組み立てられなければならない。にもかかわらず、観客がブギーマンの立場にひきつけられ、彼に感情移入しないのは、彼がまったくしゃべらず、顔すらも存在しないキャラクターであるからだ。彼はマスクを被ることで自らの存在を放棄し、“ブギーマン”たるキャラクターへと変貌する。そこで重要なのは、観客が感じる、彼から拒否されているという感覚だ。無言、マスク、そしてドクターによって補足される彼の非人間性、それらが合わさって彼は完全に理解不可能な存在になる。
そこで観客は被害者とも殺人者とも、そしてドクターとも違う宙ぶらりんな状態に置かれる。それを「神の視点」と呼ぶことも可能だが、この映画に限ってはそれは神の視点でもなんでもない。なぜならば、観客はすべてを見通せる位置にはいるが、まったく何も出来ないからだ。すべてを見通せながら、手をこまねいてそれを見ているしかない。
そこで感じる自分の無力さ、それこそが恐怖の最大の源泉なのではないかと思うのだ。そしてその無力さは、音楽によってさらに強く感じさせられる。ブギーマンが近づいているときに鳴る音楽、それはBGMとして意識に上らないように使われているのではなく、明らかにその音がなり始めたらブギーマンが来るということを意識させようという意図で使われている。
それによってわれわれが感じるのは、コントロールされているという意識だ。観客は映画が進むにつれて、音楽を聞くだけで恐怖感を感じるように条件付けられていく。それはまさにパブロフの犬の状態で、そのようにして映画の言いなりになって恐怖感を感じさせられてしまう自分の無力を痛感せずにはいられないのだ。
もちろん、「この無力感を感じさせられている」という感覚が表面化しないというのもこの映画の巧妙なところである。この視点は「一体何が怖かったのか」と問うてみて初めて見えてくる視点なのだと思う。カーペンターはそのようにしてわれわれの心理を完全にコントロールして、頭の中に恐怖を植えつけていくのだ。
!!!!!!!!ここから先はネタばれよ!!!!!!!!
後付で論理的な矛盾をあげつらうことは簡単だが、そのことと映画を観ているときに感じる恐怖とはまったく何の関係もない。「ブギーマンは死なない」という一言で、マイケルがブギーマンとなり、不死身になっても、そこに沸き立つのは疑問ではなく、恐怖なのだ。観終わった後もモヤモヤとした感じは残り、次なる殺人の予感におののくしかないのだ。
!!!!!終わり