多重障害
2004/11/12
Multi-handicapped
1988年,アメリカ,126分
- 監督
- フレデリック・ワイズマン
- 撮影
- ジョン・デイヴィー
『視覚障害』『聴覚障害』のシリーズの最後にワイズマンが撮影の対象としたのは多重障害者である。多重障害者とは、視覚と聴覚の両方に障害がある場合や、視覚障害や聴覚障害に加えて精神遅滞がある場合を言うようである。当然のことながら単純な視覚障害や聴覚障害と比べて、教育ははるかに難しいようだ。
この映画捉えるのは、じっくりと根気よく教育を続ける先生の姿と、主に幼い生徒たちの姿である。問題は、彼らの世界をわれわれが理解できるかということだ。
この作品も町の風景から、建物を移し、学校の内部へと入っていく。そこでまず気づくのは、この学校のデザインが非常にモダンで洗練されているということだ。ロビーに置かれた円形のベンチ、オレンジ色の壁、教室を表示する数字のデザイン、教室に置かれた椅子も誰だかは忘れたが有名なデザイナーのものだったはずだ。
これが意味するのは優れたモダンデザインがユニバーサルデザインに通じるということではないだろうか。ベンチが円形なのは角がないからぶつかっても危なくないからだろうし、単純なモジュールで建物が構成されているのは、視覚によって建物を捉えることが出来ない視覚障害者たちが建物の構造を理解しやすくするためだろう。さらに、映画が進むと、各教室の扉に植物が大きく浮き彫りで描かれていることもわかる。扉をさわればそこが何の教室かわかるという仕掛けだ。
そのようなハード面での徹底した配慮に加え、教師がほぼマンツーマンでつくというソフト面での配慮もなされているにもかかわらず、この作品に登場する生徒たちの世界はわれわれとあまりにかけ離れていると感じずにはいられない。特に精神遅滞との多重障害(正確には“重複障害”と呼ぶらしいが)の生徒が世界をどのように捉えているかは、われわれの理解の埒外にあるような気がしてならないのだ。
この映画の終盤では寮での彼らの生活が映されるが、そこにいたってもわれわれは彼らに感情移入することが出来ない。あくまでも彼らのおかれた状況を理解するものとして彼らを見守ることしか出来ないのだ。
しかし、視覚障害と聴覚障害が重複しているが精神遅滞はなさそうなアフリカ系の青年の場合は、逆に彼の世界を理解したいという気になる。彼はこの映画の中心となる人物の一人だが、いったい彼の中で事故と世界のイメージがどのように形成されているのかということに興味が沸く。
われわれは基本的に世界をイメージで捉えているわけだが、イメージとは基本的に視覚を中心として成り立っている。だから、眼が見えないというだけで、その人の抱く世界のイメージはわれわれと大きく違ってくるのではないかと思える。それでも、音やものの形や感触や匂いで世界を認識することが出来るから、まったく想像が出来ないわけではないし、加えて「言葉」を扱うことができるというのも大きな意味がある。言葉を使えるということは「モノ」を「意味」として捉えることができるということだ。それはつまりモノを記号化し、世界を記号の集合として認識できるということだ。そこでは自己も記号化し、対象化してみることが出来るようになるはずだ。
しかし、眼も見えず、音も聞こえないとしたら、「言葉」というものを理解することが出来るのだろうか? この全盲全聾のアフリカ系の青年は相手に手話を示して見せ、自分は相手の手話を手で触ることでコミュニケーションをしている。つまり彼は手話という「言葉」を駆使しているわけで、それはつまり感触によって認識した「モノ」と手話による「記号」の関係を理解しているということである。しかし果たして彼は世界を認識し、自己を対象化することが出来るのだろうか?
点字を読むことが出来るから、言葉を理解することは出来る。しかしそれが意味するもののどれほどを把握することが出来るのか。たとえば「鳥のさえずり」という言葉を読んでも、さえずりを感じることは出来ないし、鳥だってさわったことがなければわからないのだ。さわってみたところで、それが「鳴く」ということを感覚として捉えることが出来ない。
結局われわれは、そのように極端に感覚が制限された世界を想像してみることが出来ないのだ。それが出来ないということで、逆にわれわれは自分がいかに世界と自己とを捉え構築してきたかを理解することが出来る。自分という存在が、どれほど多くの基盤を「感覚」においているかということが理解できるのだ。そして、それを理解して初めて、彼が抱える深い闇を覗き込むことがきるのだ。そしてわれわれはそこで何も見ることが出来ない。なぜならわれわれは暗闇では眼が見えないからだ。彼も同様に何も見ることが出来ないが、逆に彼は様々なことを感じることが出来るのだ。
そのような彼が自己を確立し、自立した青年になっているということに驚きを覚えるし、それだけでこの学校は素晴らしいことをしたといえると思うが、しかしもう一歩踏み込んで、彼をそのように育てることの意味とは何なのかを考えてみたくなる。
「普通の」人間の世界観とは異なる世界観を彼は持つ。しかし彼は「普通の」人々の世界を学び、そこで自立することを学んだ。われわれには彼から逆に学ぶことが数多くあるのではないか?