アデルの恋の物語
2004/12/10
L'Histoire d'Adele H.
1975年,フランス,97分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 原作
- フランセス・V・ギール
- 脚本
- フランソワ・トリュフォー
- ジャン・グリュオー
- シュザンヌ・シフマン
- 撮影
- ネストール・アルメンドロス
- 音楽
- モーリス・ジョーベール
- 出演
- イザベル・アジャーニ
- ブルース・ロビンソン
- ジョゼフ・ブラッチリー
- シルヴィア・マリオット
一人の婦人がアメリカはハリファックスに降り立ち、とある下宿屋に落ち着く。ミス・ルーニーと名乗るその婦人は恋人であるイギリス軍のピンソン中尉を探しているらしい。しかし、彼女の言葉とは裏腹にピンソン中尉のほうは彼女には未練などないらしいのだが…
トリュフォーがヴィクトル・ユーゴーの娘アデル・ユーゴーの生涯をつづった『アデル・ユーゴーの日記』を映画化。愛に生きる女を演じたイザベル・アジャーニの激しさが印象的。
イザベル・アジャーニはコメディ・フランセーズ出身で、この作品でアカデミー賞にノミネートされ、一気に注目を集める存在となった。その演技は心を打つほどに激しく、アデル・ユーゴーというキャラクターにピタリとはまる。前半の抑えた感情が紙の前に向かったときにほとばしる、その時の身体表現がまず素晴らしく、それが映画が進むにつれて、感情が表に出てくるその出方もまた素晴らしい。
そのイザベル・アジャーニの演技に引き込まれはするが、今見ればまずこれは“ストーカー”の映画であると思えてしまう。別れた男を執拗に追いかける変質教的な女、それはつまり“ストーカー”以外の何者でもない。今ならば、そのストーカーに批判的な目を向けるにしろ擁護するにしろ、その精神構造というか、心理を映画の中心に持ってくるのだろう。
しかし、トリュフォーはもちろんそうはしない。結論を言ってしまえば、トリュフォーは彼女に恋の究極的な形を投影しているのだ。恋に生き、恋を映画にし続けるトリュフォーが描く究極的な愛の形、それがこのアデルなのである。 では、トリュフォーにとっての究極的な愛とは何なのか、この映画を観ると、それは相手のことを考えることでありながら、究極的には自己愛的なものであるようだ。
愛の究極的な対象は、生身の人間ではなく、自分の頭の中にある相手の姿なのである。もちろん生身の相手が存在している必要はあるのだが、突き詰めていけば、その生身の人間そのものを愛しているのではなく、自分に投影されたその像を愛している。トリュフォーはそのように言いたいのではないかと思うのだ。
なぜならば、映画の終盤でアデルは愛するピンソン中尉に話しかけられても、彼の顔も認識できなくなってしまっている。そこで彼女が愛を捧げている対象はもはやそこにいる生身のピンソン中尉ではないということがわかる。にもかかわらず彼女は依然として愛に身を捧げているのだ。
それを狂気ということは簡単だ。しかし、そういうならば、彼女はいったいどこで狂気に陥ったのか、正気と狂気の境界線はどこになったのか。彼女によってはこの映画で描かれる家庭のすべてが現実であり、彼女にとっての真実だったはずだ。それが客観的現実(と言われるもの)とずれたところ、つまり結婚したと嘘をついたところが彼女が狂気に陥ったクリティカルポイントだということなのだろうか。
私はそうではないのだと思う。この映画で表現されているのは、正気と狂気の滑らかな連続性、正気であると考えられる人間と狂気であると考えられる人間の質的な違いのなさなのではないだろうか。こう書いてしまうと陳腐になってしまうが、誰しもが狂気と正気の間のどこかに位置していて、その間に明確な境界線はないのだと。
そしてトリュフォーにしてみれば、恋の前ではそのような区別など無用なのかもしれないとも思うのだ。この映画は狂気を描いているのではなく、あくまでも愛を描いているのだと、トリュフォーが言っているように私には思えるのだ。