めまい
2004/12/12
Vertigo
1958年,アメリカ,128分
- 監督
- アルフレッド・ヒッチコック
- 原作
- ピエール・ボワロー
- トーマス・ナルスジャック
- 脚本
- アレック・コッペル
- サミュエル・テイラー
- 撮影
- ロバート・バークス
- 音楽
- バーナード・ハーマン
- 出演
- ジェームズ・スチュワート
- キム・ノヴァク
- バーバラ・ベル・ゲデス
- トム・ヘルモア
- ヘンリー・ジョーンズ
犯人を追跡中に部下が建物の屋根から落ちたことをきっかけにして高所恐怖症になり、警察をやめることにしたジョン・ファーガソンだったが、学生時代の友人エルスターから妻のマデリンが奇妙な行動をとる真相を突き止めて欲しいと依頼される。しぶしぶ承知したジョンは尾行をはじめるのだが…
前半と後半でがらりと物語が変わる、ロマンスとミステリーのない交ぜになった独特のストーリーテリングが面白い。
どうしてもネタばれしてしまうので、なるべく映画を観てから観てください。
結末さえわからなければいいという方は、結末がばれてしまうところでは、もう一度そう宣言するので、そこでやめてください。
この映画の物語の中心はエルスターの妻マデリンが過去の亡霊に取り付かれているという話であるのに、映画のタイトルは『めまい』(原題でも“Vertigo”)だし、映画の始まりは主人公のジョン・ファーガソン(スコティ)が高所恐怖症になる原因となった事件なのである。
この映画はこのように最初から違和感を持って始まる。すでに観客はこの物語の中心になっている事件とスコティの高所恐怖症が関係してくるし、ゆくゆくはこの高所恐怖症が物語に重要な位置を占めることになるということをあらかじめ予告されているのである。
したがって、事件の真相を知りたいという謎解きの興味に引っ張られながら、どこかでその「めまい」が引っかかり続ける。
そして、その引っかかりは前半の最後、スコティがマデリンを追いかけて塔を上るところで一応の関連を見せる。高所恐怖症のせいで彼は階段を登ることが出来ない(ここで見せる「めまい」の映像表現はさすがはヒッチコックというまさに見ているこっちがめまいを起こしそうな表現だ)。そして、彼はマデリンを救えなかったのは自分の高所恐怖症のせいであると考えるのだ。
しかし、まだ事件の真相は明らかになっておらず、引っかかりは残ったままだ。しかもスコティは事件のことなどどうでもよく、ただマデリンを失ったということで打ちひしがれているのだ。つまりここで、この映画はラブ・ストーリーなのではないかという疑問が頭をもたげる。サスペンスに伴って男女が出会うというサブストーリーとしてではなく、ここでは恋愛こそがメインで、サスペンスのほうが添え物なのではないかと思えてくるのだ。
スコティの街でマデリンに似た女性を見つけ、その女性ジュディをマデリンに仕立てるべく洋服を買い与えたりする。
ここから結末までネタばれ。
再び塔に登るとき、スコティの高所恐怖症が唐突に治る。そして、ジュディが塔から落ちても、スコティはむしろ高所恐怖症が治ったことを喜ぶだけで、ジュディのことはなんとも思っていないような表情を浮かべたまま下を見て、そこで映画は終わる。
これはいったい何を意味しているのか。
ひとつにはジュディの死が彼にはまったく意味を成さない、ということがいえる。彼の中でマデリンは一度目の転落で死んでしまっている。ジュディが現れ、あれはまやかしだったと言っても、ジュディが再びマデリンになることはないのだ。ジュディが自分がマデリンを演じていたのだということは、自分は偽者だということを喧伝している以上のなにものでもないということになってしまう。
つまり、ジュディが生きていようと死んでしまおうと、スコティがマデリンを失ってしまったということに変わりはない。現実的にマデリンとジュディが同一人物であるということは関係ないのだ。
そもそも高所恐怖症=めまいとはスコティにとっての自分自身に出来た傷の象徴なのではないかと思う。自分の完全性に与えられた傷である。つまり、高所恐怖症を治すにはその完全性を取り戻すしかないのだ。
マデリンを死なせたことは彼にとってその傷をさらに深めることとなった。がしかし同時に、高所恐怖症に罪を着せることが出来た。自分の傷を認識することができたのだ。
そこにジュディの告白がくる。それによって彼はマデリンの死が自分のせい(=高所恐怖症のせい)ではないということを理解する。マデリンを失った悲しみは癒えないが、ここで高所恐怖症が自分の完全性を傷つけているという認識は覆る。そこで彼は完全性を取り戻し、高所恐怖症は癒えるのだ。
こじつけのようにも思えるが、この映画における高所恐怖症=めまいの意味はそのようなものだと思う。
そこまで考えると、この映画は再びラブ・ストーリーなどではないということになりそうだ。これは単純にジョン・ファーガソンという男のアイデンティティの問題を扱った映画に過ぎないということだ。
彼がマデリンに恋をしたのも、めまいという形で現れてしまった自分自身の傷を何か別のもので埋めようとしただけなのではないかと思えてくる。そう言ってしまうととりつくしまもないという感じだが、映画の様々な要素をそぎ落としていくと、そのような核が残るような気がしてしまうのだ。