少年裁判所
2004/12/13
Juvenile Court
1973年,アメリカ,144分
- 監督
- フレデリック・ワイズマン
- 脚本
- ジョン・デイヴィー
メンフィスにある少年裁判所、そこにつれてこられた18歳未満の少年・少女たち、強盗などの重犯罪を犯したものもいれば、家出を繰り返してつれてこられただけのものもいる。彼らを裁くというより相談して彼らに最良の方法を選択しようとする裁判官や弁護士、検事、保護監察官らの行動を追う。
ワイズマンの7本目の作品で、『高校』や『基礎訓練』との連続性が感じられる作品。
映画の序盤はいつものように散漫な印象だ。建物の外景から入って、少年たちが説明を受けるシーン、散髪されるシーン(未決なのに散髪なんかしていいのかという気もするが…)、運動場で体操しているシーンなどが映されながら、ここのケースに対応する相談員(?)が映される。
様々なケースが登場するのだが、徐々に中心となるケースが絞られていく。ひとつは子守に行った家の女の子にいたずらをしたとして告発された少年のケース、もうひとつは麻薬常習者で麻薬を子供に売ったと疑われている少年のケース、そして強盗に加担したとされる少年のケースである。
後半は主に裁判のシーンが中心となり、それらの裁判を裁く裁判官はひとりである。ここでワイズマンの映画としては珍しい現象として、彼が主人公的な存在に見えてくるというのがある。ワイズマンの作品は基本的に中心となる人物が数人いるにしても、一人の主人公が設定されるということはほとんどない。たとえば『臨死』で中心的な役割を果たす医師が数人いるが、そのうちの誰か一人が主人公とは言えないと思う。
しかし、この作品はこの裁判官が主人公であると言っても支障はなさそうなのだ。なぜならばわれわれ観客は徐々に彼の視線から少年たちを見るようにいざなわれるからだ。少年の立場でも、彼を訴追する堅持の立場でもなく、中立で冷静に少年のためになることを判断しようとしている(らしい)裁判官の立場に身をおいて、それぞれのケースで実際に何が起こって、どう判決すればいいのかを考えるように仕向けられるのだ。
そのようにしてわれわれは映画の中に居場所を与えられるので、すうーっと映画に入っていくことが出来る。完全な傍観者であることを強いられる他の作品の居心地の悪さとは違って、映画に加担することが出来るわけだ。
この方法がいいかどうか、ワイズマンらしいかどうかはおいておくとすれば、これは非常にフィクションっぽい映画ということになる。ドキュメンタリー的であるよりはフィクション的/ドラマティック/劇的なのである。だからまず、ワイズマンに慣れていない観客にはいいだろいうということが頭に浮かぶ。
そのようにして物語にひきつけられた上で、そこからこぼれ落ちてくるものを考える。映画を観終わって感じるのは、少年裁判制度への不信感だ。最後の強盗の疑いを掛けられた少年の言を待つまでもなく、そこでは決して事実が明らかになることはなく、何が正義なのかは最後までわからない。なんともいえないわだかまりが残るような気がするのだ。
それを演出するのは、この映画の閉塞感かもしれない。この作品は映画全体が一日として構成されている。もちろん撮影期間は数週間にわたったわけだが、ワイズマンはそれを一日の出来事として編集しているのだ。われわれは朝、その裁判所に入り、少年院に送られたり、保護観察になったりという決定を下される少年たちを見る。そして映画が終わるとぷつりと画面が切れて、外の街の夜の風景が映される。少年たちは誰も出てこない、頭をやけどした少年の祖母も迎えに来ない。彼らはそのどこかカフカ的なものを思わせる官僚的な機構に囚われて抜け出せないかのようなのだ。
そのやるせなさを抱えたまま映画を観終わる。そしてわれわれはその少年たちに責任があるようにも感じるのだ。