山猫
2004/12/17
Il Gattopardo
1963年,イタリア=フランス,188分
- 監督
- ルキノ・ヴィスコンティ
- 原作
- ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ
- 脚本
- スーゾ・チェッキ・ダミーコ
- パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ
- エンリコ・メディオーリ
- マッシモ・フランチオーザ
- ルキノ・ヴィスコンティ
- 撮影
- ジュゼッペ・ロトゥンノ
- 音楽
- ニーノ・ロータ
- 出演
- バート・ランカスター
- アラン・ドロン
- クラウディア・カルディナーレ
- リナ・モレリ
- パオロ・ストッパ
- ジュリアーノ・ジェンマ
- オッタヴィア・ピッコロ
- ピエール・クレマンティ
1860年、統一戦争に揺れるイタリアでは、ガリバルディ率いる赤シャツ隊が貴族制度の撤廃を求め革命を起こす。その波は南のシチリアまで届き、シチリアを統治するサリーナ公爵家もそれを無視することは出来なかった。公爵の甥のタンクレディは革命軍に参加、その縁もあってサリーナ家は時代の変化に対応しつつ安泰だったが…
自らも貴族階級出身のビスコンティがイタリアの貴族階級の没落を描いた代表作のひとつ。オリジナルは183分、ディレクターズカット版が201分、日本で当初公開された英語版は161分だったが、2004年に完全復元版として188分のバージョンが公開された。
この映画はまず長いが、その長いという感覚をさらに助長するのが、この映画の徹底したアンチ・クライマックスである。ここで起きるすべての物事がクライマックスを欠いている。ガリバルディ率いる赤シャツ隊がシチリアにやってくるが、彼らとファブリツィオが直接に出会うことはなく、甥のタンクレディが革命軍に加わり、戦闘シーンが描かれ、タンクレディが帰ってくるというエピソードしか描かれない。戦闘シーンにはある種のカタルシスがあり、クライマックスでありそうなのだけれど、それが象徴する貴族階級の敗北と革命軍の勝利はこの映画の主人公たるサリーナ家とは隔絶した場所で起きた事件でしかない。だからこそファブリツィオは「結局何も変わらない」という考えを表明し、そしてそれが間違っていなかったことが実証されるのだ。
そして、そのアンチ・クライマックスはすべてに通じる。タンクレディとコンチェッタの恋もいつとはなく終わり、タンクレディとアンジェリカの関係も大きな波はなく進んでいく。何事も、何らかのクライマックスに向かって物語が盛り上がっていくということは決してなく、すべての物事がアンチ・クライマックス的に終わり、忘れ去られていく。
そんな中、画面に刻まれた無意味な点が妙に意識に上る。たとえば夫人のヒステリー、このヒステリー自体はほとんど意味を成さないにもかかわらず、強烈な印象を残す。あるいは、狩りのシーンで、ファブリツィオの隣にぶら下げられたウサギ、会話をしているその横でぶらぶらと絶えずゆれているそのウサギはまったく無意味であるのに、私たちの注意は会話よりもそのウサギのほうに向いてしまう。さらにその奥で馬だかなんだかわからない動物が草を食んでいるのがうっすらと映っているのも気になってしまう。
そのように無意味な、いわば「染み」のようなものになぜかひきつけられてしまうのだ。
このようなことが起きるのは、この映画が全体を通して「無意味さ」で彩られているからではないか。この長時間の物語の意味は何かと問おうとしても、その意味は決して明らかではなく、むしろどこを切っても無意味なのだということが感じられてしまうのだ。そしてその無意味さの中で意味を探そうとする観客の視線が無意味さの中の異物としてのさらに無意味なものに眼を向けてしまうのではないかと思うのだ。
先ほどの狩りのシーンで言えば、ファブリツィオとドン・チッチョが話しているドン・カロジェーロの一家についての話には意味がありそうだが、実際は意味はない。アンジェリカの両親についていろいろなことを言いながら、最終的にはアンジェリカ自身はまったくすばらしい娘だという、ここでもアンチ・クライマックスな結論に至るのだ。そしてその中でどうしても目に入ってしまううさぎもまったく意味はない。
このような映画の進行にしたがって強まっていくのはこの映画が徹底的に無意味であるということだ。それは基本的にはファブリツィオが感じている倦怠感というか、厭世感というモノとつながっていると思う。映画の終盤に差し掛かるところで、ファブリツィオは上院議員になって欲しいと言ってやって来た役人が帰るその帰り際に、「われわれは山猫や獅子で、あとを継ぐのは山犬や羊だが、みんな地の塩と考える」というようなことを言う。しかもその言葉をその役人は聞き逃すのだ。地の塩ということがどのような意味かよくわからないが、聞き逃したということも含めて、ここで「この映画は徹底的に無意味なのだ」と実感した。
「聞き逃す」ということもこの映画では頻繁に出てくる。この「聞き逃す」ということが象徴するのもまた無意味さではないかと思う。この映画で人々が相手の言葉を聞き逃すのは、何か自分の考えに沈んでしまっているときである場合が多い。そのために会話の一端を聞き逃すというのはその会話自体の無意味さを象徴してはいないだろうか。
役人が帰ったそのすぐあとにくる舞踏会のシーン、それは完全なる「無意味さ」のシーンであると思う。つまりこの舞踏会のすべてが無意味なのである。ファブリツィオはそれをあらかじめ知っている。だからまったくそれに興味がない。英雄だという大佐の話にも興味を示さない。
彼が唯一やった行動はアンジェリカと踊るということだけだ。ここにこの映画の徹底的な無意味さの中で唯一の意味あるものが垣間見えるのかもしれない。そこに存在しているのは“嫉妬”である。この映画の無意味さの中で唯一の意味あるもの、具体的に存在しているものは“嫉妬”であるのだと思う。このシーンで嫉妬心を抱くのはファブリツィオであるファブリツィオの嫉妬心は滝のような汗という形で、視覚化される。
この汗を引き出す暑さはこの舞踏会における「染み」の役割を果たす。完全に無味な舞踏会というモノにこの暑さがある種の触感を与えている。この暑さがあるために無意味ではあるが、隔絶した世界としてではなく、現実的なものとして認識することが出来る。