スーパーサイズ・ミー
2004/12/24
Super Size Me
2004年,アメリカ,96分
- 監督
- モーガン・スパーロック
- 脚本
- モーガン・スパーロック
- 撮影
- スコット・アンブロジー
- 出演
- モーガン・スパーロック
肥満に悩む十代の二人の女性が、自分たちが肥満になったのはハンバーガー会社の責任だとして訴訟を起こした。モーガン・スパーロックはファーストフードが本当に体に悪いのかどうかを検証するため、自らが実験台となって、一ヶ月ファーストフードだけで生活することを決意する…
自分を実験台にした様子を撮影するという新しいタイプのドキュメンタリー。発想の奇抜さとファーストフードというあまりに身近なものを題材にしたことで話題を呼ぶ。実際にどのような影響があるのかを見るのは非常に興味深いものがある。
マイケル・ムーアによってドキュメンタリーはエンターテインメントとしての市場価値を得た。このドキュメンタリーはその流れに乗ってヒットに結びついたと言ってもいいだろう。もちろんそこには大企業からの圧力もあったろうが、観客がそれを求めたことは間違いない。
この映画の始まり方は非常に魅力的だ。果たしてファーストフードを一ヶ月食べ続けたら人間の体はどうなるのか、いたって健康、恋人はベジタリアンのシェフというすばらしい食環境にいるスパーロックがあえてそのような実験に乗り出す。この発想は本当に面白い。そして、観客がぐっと集中できるように、様々な科学的なデータで健康度合いを測れるように予備知識を与える。数人の医者が登場し、彼の健康に太鼓判を押す。これがいかに崩れていくのか、これが観客の興味となるのだ。
だから実際のところ、この映画の面白みはそこにしかない。彼がどうなるのか、彼はぶくぶくに太るのか、内臓に疾患が出るのか、そのようなことを楽しみに観客は映画を観る。しかし、映画のほうはそれだけではなく、ファーストフードに関する様々な実態をレポートする。特に深刻なものとして語られるのは子供たちの給食の状況である。子供の頃からファーストフードに慣らされた子供たちは大人になってもそれを食べ続ける。そしてその子供たちも… というように無限にファーストフードは食べ続けられるのである。
そのような問題のありかは非常にわかりやすい。食に関する教育の部分を変えればいいのである。
ここまででこの映画は宙ぶらりんになる。そのわかりやすい問題の裏に潜む本当に深刻な問題に間では話が行かないのだ。この辺りはマイケル・ムーアに似ているかもしれない。社会的であることを明らかにし、わかりやすく問題を提示してみせる。逸れはそれで非常に意味のあることだし、それが面白ければなおさらいい。しかし、それ以上には行かないのだ。その問題が抱える袋小路に陥ったまま、映画を観た直後には何かを考えるにしても、それは徐々に薄れて行ってしまう。
この辺りにこれらのドキュメンタリーがもつ根本的な問題点があるのではないか。これらのハリウッド化されたドキュメンタリーが。この映画で批判の矢面に立たされているファーストフードチェーンたちはこの映画に反対するだろうが、強い圧力はかけない。その経営者たちはこの映画によって客が減るとは思っていないのだ。確かに“スーパーサイズ”の販売はやめたかもしれない。栄養士には勧められないということが明らかになったかもしれない。しかしそれでも人々はハンバーガーを食べるのだ。
それがこのドキュメンタリーが浮き彫りにする本当の問題のありかだ。このような抵抗が効果的なように見えて、実は企業家たちに一矢を報いることは出来ていないのだ。このような映画は企業家たちに反抗する大衆にとってガス抜きとして働いてしまう。大衆はこんな映画を観て企業家たちに対抗した気になって、しばらくはファーストフードに行く回数を減らすにしても、きっとまた戻っていくのだ。あるいは企業家の側が大衆の注意をそらすような新たな戦略によって再び大衆を取り込んでいくのだ。
この映画は確かに面白い。しかしこれがあくまでエンターテインメントに過ぎず、これがドキュメンタリーである(=社会的であると捉えられる)と宣言することによって隠蔽されることがあることも考えなければならないと思う。