ハリーの災難
2004/12/25
The Trouble with Harry
1955年,アメリカ,99分
- 監督
- アルフレッド・ヒッチコック
- 原作
- ジャック・トレヴァー・ストーリー
- 脚本
- ジョン・マイケル・ヘイズ
- 撮影
- ロバート・バークス
- 音楽
- バーナード・ハーマン
- 出演
- エド・グウェン
- ジョン・フォーサイス
- シャーリー・マクレーン
- ミルドレッド・ナトウィック
- ローヤル・ダーノ
とある田舎町で少年が死体を発見、続いて密漁中の初老の男ワイルズ船長が同じ死体を発見、自分が撃ってしまったと思い込み、死体を処理しようとしているところに近所に住むミス・グレイブリーが通りがかる。ミス・グレイブリーは死体をさほど気にせず船長をお茶に誘う…
ハリーという男の死体をめぐる奇妙な物語。サスペンスのようでサスペンスではない不思議な味わいで、ヒッチコックのアンダーステートメントの代表作となっている。
なぜみんな死体を見ても驚かないのか。これにこの映画の最大の謎があると言ってもいい。死体を隠そうとするワイルズ船長は「どうして?」という疑問を持つこともなく、自分が撃ったのだと考える。そしてそれによって罪悪感に駆られるとかいうことではなく、ただ「どうしようか」と考えるのである。ミス・グレイブリーやミセス・ロジャースにいたっては驚くことすらなく、すんなりと死んでいるということを受け入れるのだ。この盛り上がりに欠けることこの上ない映画の進み方が観客にとってはなんといっても謎だ。
もちろん、具体的に誰が殺したのかということも謎になる。映画の冒頭で殺人のシーンと思われるシーン(アーニーが目撃する)があり、「お前みたいな奴は」と男の声がして、林に二人の人影が見えるような気がする(チラリと映るだけなので、本当に人影かどうかはわからなかったと思うが)。だから、ワイルズ船長が殺したはずはないし、ミス・グレイブリーやミセス・ロジャースでもないはずだと思える。では、誰なのか、そんな疑問はずっと付きまとう。オーソドックスなサスペンスならば、それがメインになるはずなのだが、この映画ではそのまっとうなサスペンスとしての筋は脇に押しやられ、どうして死体を見ても驚かないのか? という疑問が先行してしまうのだ。
ということは、その疑問のほうにより大きなウェイトがおかれていると考えたほうがいいということだ。無理やりにまっとうなサスペンスと考えて、面白くもない犯人探しをするよりも、素直にそこで起こっている不思議なことの原因を探ったほうがこの映画を真に味わうということになるのではないかと思うのだ。
そう考えた上で、なぜ驚かないのかということを考えてみる。少しずつネタばれになるが、誰が犯人かというところはそれほど重要ではないと思うので、気にせず書きます。
彼らが驚かないのは、まずその死によって何も代わらないからである。もちろん殺人を犯したとなれば、人生ががらりと変わってしまうだろうことは想像できるし、実際映画の中でもそのようなことが口にされることもある。しかし、彼らは本当にはそんなことは心配していない。彼らにとってハリーの死は、現実的な殺人とは何の関係もないことなのではないかと思うのだ。なぜなら、ハリーなる人物はもともと存在していなかった人物である。彼らは生きたハリーと接したことはない。ハリーは元から死んでいたのであって、死体として彼らのところに現れたのである。
なので、問題になるのはハリーがなぜ死んだのかではなく、ハリーの死体によってどうなるのかということになるのである。原題のthe
trouble with Harryは「ハリーの災難」というよりはハリーについてきた災難、あるいはハリーとのごたごた、というような意味に捉えたほうが、そのことがよくわかる。ハリーとは彼らの災難そのもの、何の理由もなく彼らに降りかかった災難なのである。そういう意味では、彼らがおかれた立場は「間違われた男」に似ている。自分には何の非もないのに罪を着せられ、そこから逃れようともがく無実の男たちと同じ立場に彼らはおかれているのだ。したがって物語り結末はハリーという災難そのものがなくなることによってしかもたらされない。つまり、ハリーが生き返るか、ハリーが安らかに死ぬかである。
ハリーが安らかに死ぬというのは、ハリーの死が彼らにまとわりつくことをやめ、単なるひとつの死として片付けられるということである。そうなって初めて彼らは災難から逃れることが出来るのである。
では、この映画がそのような物語だとして、それはいったい何を象徴しているのか。それを考える上で重要になりそうなのは、繰り返される死体の発見のシーンである。ハリーがこの物語に(つまり彼らの生活に)放り込まれるのはアーニーによるハリーの死体の発見である。そして、物語が幕を閉じるのは、翌日の朝、アーニーが再び同じ場所で死体を発見するというシーンなのだ。この2つのシーンはただ同じシーンが繰り返されるというだけのものではなく、2度の死を象徴しているのではないかと思うのだ。1度目は物理的なハリーの死、2度目は船長やサムにとってのハリーの死である。
ここで重要なのは船長たちはみながハリーの一度目の死の罪を背負っているということである。まったく関係ないはずのサムも死体を埋めることに手を貸すことで、共犯者となり、その殺人の罪を背負うのだ。しかもそれは自分に責任がない罪なのである。
ハリーがもう一度死ぬことでその罪は晴れる。そこで重要なのは客観的に罪責が晴れるということではなく、彼らが罪の意識を払拭するということなのだ。いわれのない罪悪感(キリスト教的な原罪、あるいは心理学的な父殺し)を払拭することによって他者との新たな関係を築き上げることこそがこの映画のテーマなのではないか。
カルビンだけはその罪悪感からのがれることが出来ていない。彼だけはその原罪を背負い続け、コミュニティーからも疎外され続けている。だとしたら、論理的に言って、ハリーを殺したのは彼なのだ。ハリーを一度だけ殺すことが出来るのは彼しかいない。