愛と希望の街
2004/12/26
1959年,日本,62分
- 監督
- 大島渚
- 脚本
- 大島渚
- 撮影
- 楠田浩之
- 音楽
- 真鍋理一郎
- 出演
- 藤川弘志
- 望月優子
- 富永ユキ
- 千之赫子
- 渡辺文雄
街角で一人の少女が少年から鳩を買う。その少年正夫は靴磨きの母親と妹と3人暮らし、体を壊した母親はそれでも正夫を高校にやるといって無理をやめない。鳩を買った少女京子は会社の重役の娘で、病気の弟への見舞いで鳩を買ったのだったが…
大島渚が貧しさのどん底にある少年と、ブルジョワの少女の出会いを描いた社会派の小品。大島渚の第2作目の監督作品で、力強い物語展開と鮮やかな映像表現が新鮮。
貧乏な少年と裕福な少女の出会いというテーマは特に珍しいものではない。しかし、このテーマではその出会い/衝突によって何が生じるのかという点で様々な可能性を孕んでいる。たとえば人間性に富んだ裕福な少女のおかげで少年が幸せになる。あるいは少女が社会の不平等などの問題に気づき、社会運動に目覚める。などなど。
そのような可能性のうち、どのような結末が選択されるのか、これがこの映画を見ていく上のストーリーラインとなるわけである。作品の長さが1時間あまりと短いので作品の構造は非常にシンプルだ。ひとつはその少年と少女の出会いと二人の価値観の違い/衝突から生まれる結果を追うもの、もうひとつはその少年の担任と少女の兄の恋の行方(これも少年と少女の衝突と同じ衝突が存在する)。この二つだけであり、そのエッセンスは同じものである。この2つのプロットは同じ結果になっても違う結果になってもいい。その構造がこの短い映画に力強い展開力を生んでいる。
あとは、結末から書いていかざるを得ないので作品のあらすじを説明しながら、ラストまでネタばれします。
この映画はラストシーンはとてもいい。それは京子とその兄が正夫から再び買った鳩を撃ち落とすというモノである。この映画は京子が正夫から鳩を買うところで始まる。そして京子は正夫に同情し、社会の不平等を憂う。京子の兄の勇次は正夫の担任の先生(秋山先生)が正夫ら生徒たちの就職を頼みに会社にやってきたところで出会い恋をする。正夫は鳩が帰ってくることを利用して何度も鳩を売っているが、今回も一羽が帰ってくるが、怪我ですぐに死んでしまう。京子はもう一羽も放し、正夫に手紙を送る。京子と正夫は仲良くなるが、勇次の会社は正夫のその行為を問題として正夫を不採用にする。正夫はまた鳩を売ることを決意し、そこに京子がやってきて、正夫は何度も鳩を売っていたということを告白する。京子はその鳩を買う。勇次は秋山と会い、二人の間に埋めようのない溝があると告げられる。勇次もそれを認めざるを得ず、失意のまま家に帰る。そして京子と勇次は正夫から買った鳩を撃ち落すのだ。
ここに存在するのはまさしく、貧しい人々と裕福な人々の対立である。裕福な家で育った京子と勇次は貧しい正夫とそれを支える秋山に同情するなり恋するなりして彼らのことを思うようになる。しかし、それはあくまでも「思う」だけのことであり、彼らを理解したわけではないのだ。正夫が帰ってくることを見越して鳩を売るという行為がどうしても必要だったということを理解することが出来ないのだ。京子と勇次は善人であるだけになおさらそのことを理解できない。だから正夫を許すことが出来ないのだ。
そんな彼らの間の心理の行き来を象徴的に示すものが鳩である。まず鳩は正夫から京子の手に渡る。そしてそのうちの一羽は帰ってくるがすぐに死んでしまう。それは二人の間の行き違いを象徴しているのではないだろうか。京子は一方的に同情心を抱くが、正夫にはそれお受け入れることが出来ない。京子がは「どうして好意を素直に受け取れないのか」と悩むが、そんな施しのような好意を素直に受け取れるはずはないということが理解できないのだ。
次の鳩は正夫に受け取られる。それは正夫が京子を受け入れたということだ。それは京子の行為が本当に純粋な好意から、施しではなく真心からのものだと正夫が感じ取ったからだろう。そのときから鳩は京子の真心の象徴として正夫のところにとどまる。しかし、正夫は最後に再び鳩を売ることを決意する。それは京子の気持ちが真心とは言っても貧しさに対する同情に過ぎなかったと理解するからだ。彼女は正夫に対して真心を持っていたのではなく、貧しさから来る悲惨さに対して真心を持っていたのだ。だから、正夫はそれを振り切るために鳩を売る。その時、鳩は正夫の反骨心の象徴となる。京子はそれを買うが、それを受け入れることは出来ない。そして勇次も同じ結論に至る。
結局、彼らは正夫や秋山を本当には理解することは出来ず、そして彼らとともに生きようと自分の生活を捨てることは出来ない。そしてその決別の象徴として鳩を撃ち殺すのだ。
この結末は彼らを批判しているように見えるが、実はそうではないのだと思う。実際は誰も自分の生活を捨てて貧しい人々を救うことなど出来ないのだ。それが出来ないのは、彼らもまたそのような社会の仕組みから逃れることが出来ないからだ。彼らがヒロイズムを奮い起こして立ち上がったとしても、それで問題が解決するとは思えない。そんな絶望的な態度がこの映画の結末には存在する。
問題はこの映画の先にあるのではないか。誰もが絡めとられがんじがらめにされてしまっている社会の構造、その根本的な不平等さをいかに解消すればよいのか、この映画がやったことはそれを意識させるということだ。「これをやればいい」という解決策を示すことは誰にも出来ないのだから、これはこれでいいのだと思う。