ほえる犬は噛まない
2004/12/28
Flandersui gae
2000年,韓国,110分
- 監督
- ポン・ジュノ
- 脚本
- ポン・ジュノ
- ソン・テウン
- ソン・ジホ
- 撮影
- チョ・ヨンギュ
- 音楽
- チョ・ソンウ
- 出演
- ペ・ドゥナ
- イ・ソンジェ
- コ・スヒ
- キム・ホジョン
- ピョン・ヒボン
- キム・ジング
なかなか教授になれないユンジュは妊娠中の妻ウンシルに疎まれ、近所の犬の鳴き声にいらついていた。ある日、自分が住む団地で犬を見つけた彼はその犬を殺そうとするが出来ず、マンションの地下室に閉じ込めてしまう。一方、その団地の管理事務所で働くヒョンナムのところに少女が犬を探すビラを持ってやってくる…
団地を舞台に、そこで交錯する人々の生活を描いたシュールなコメディ。TVで人気のペ・ドゥナの映画初主演作、共演は『アタック・ザ・ガスステーション』などのイ・ソンジェ。
この映画の原題はなんと「フランダースの犬」! ユンジュが映画の途中に出てくるカラオケ屋で韓国語版の「フランダースの犬」を歌っているらしいことには気づいたけれど、まさかそれが題名になっているとは… 別に映画の内容はアニメの「フランダースの犬」の内容とはまったく関係ありません。念のため。ひとついえるのは、この当時の韓国ですでに日本のアニメが広く見られ、日本の文化がかなり入ってきていたということ。映画を観ても、コンビにはローソンだし、酒の横に置いてあるのはポカリスエットだし、日本のものであふれている感じがします。そして今度は韓流ブームという形で、今度は韓国の文化が日本に入ってくる。隣の国だし、これが正常な関係なんだろうと思います。これは余談ですが、この映画の主演のペ・ドゥナの映画初出演はなんと韓国版の『リング』、しかも貞子役だったそうな…
さて、映画です。
この映画は、表面的にはコメディの形をとっているが、これが単純なコメディではないことは一目でわかる。映画の冒頭で、ユンジュが窓の外を見ると、そこに緑色の不定形のものが映っている。それがなんだかはわからないが、その不定形のあるものの存在、それだけで典型的なコメディから外れていく。
この映画は基本的にまっとうな映画で、そのまっとうな映画としての本筋から外れた部分で笑いをとっているように見える。しかし、実際のところこの映画の始まり方からして、決してまっとうではない。この映画には絶えず幻想的な風景が付きまとい、それがズレとしてではなく、映画の本質として存在し続けている。まずは、その冒頭の緑色の不定形のものがそうだし、次は飲み会のあとユンジュがトイレで先輩に会って、ふたりが会話をしているシーンがそうである。このシーンで、カメラがトラックバックするのだが、なぜか会話しているふたりもカメラと一緒に移動し、その背景だけがどんどん遠ざかっていく。二人は自分たちでは移動していないはずなのに、いつの間にか出口に近づいて行ってしまうのだ。これはどう考えても笑いを狙った外しではない。このシーンが抱えるおかしさはこの映画の全体に通底する。
そのおかしさとは、この映画が三人称で語られているようで、常にそこに一人称の語りが入り込んでくるところから来る。見ている観客からしてみれば、そのシーンが客観的な三人称の視線で撮られたものなのか、それとも主観的な一人称に視線で撮られたものなのか、すぐには判別できないのである。そのズレが時に不思議さを生み、時に謎を生み、時に笑いを生む。これがこの映画の面白いところであり、非常によく出来たところなのだと思う。
だから、印象としては「変な映画だなぁ~」という感じなのに、なぜか心に響いてくる。このようなひねりを加えた伝え方というのが、ストレートな伝え方よりもダイレクトに心に伝わるという非常にいい例なのではないだろうか。
それではいったい何が伝わってくるのか、それは観る人によって違ってくることは確かだが、基本的なところを言えば“閉塞感”なのではないかと思う。この映画の登場人物の誰もが閉塞感を感じている。観る人は、その誰かの閉塞感を共有できるのではないかと思うのだ。閉塞感というのはそこを突破したいという欲望を掻き立て、その欲望が実現できないという不満がさらに閉塞感を倍化させる。その過程がこの映画には非常によく出ていると思うのだ。
映像として明確にそれが現れているシーンをひとつ上げるなら、ヒョンナムとチャンミが酔っ払って帰るときに路上に止めてあった車のサイドミラーを折るというシーンがある。このシーンは道路を転がるサイドミラーの映像で切れ、次にはチャンミが電車の連結部分の中でタバコをすっているのがガラス越しに映る。そのつながりはまるで心の中の閉塞感が物理的に具現化したように見えるのだ。
そのような閉塞感がこの映画にはあふれ、それを突破できない鬱屈が積もり、時にはそれが幻想という形で排出される。それがこの映画の構造であり、それはメビウスの輪のように未来永劫回り続ける。これはコメディだが、ユンジュがトイレで先輩から聞いた話のように「笑えない話」なのだ。
閑話休題。
韓国人が犬を食べるというのは有名な話だが(別に一般的に食べられているというわけではなく、おじさんが精力をつけるために食べるらしいが。日本のすっぽんみたいなもの?)、それを知らなかったら(あるいは聞いたことがあっても信じられなければ)、そもそもこの映画はコメディとしても成立しない。犬をペットとして飼いながら、食べもするというある種矛盾した文化が背景にあって初めて成立する映画なのかもしれないから、欧米人などにはまったく受け入れがたいか、ぜんぜん違う捉え方をするのではないかと思ったりもする。