泥棒成金
2005/1/9
To Catch a Thief
1954年,アメリカ,106分
- 監督
- アルフレッド・ヒッチコック
- 原作
- デヴィッド・ダッジ
- 脚本
- ジョン・マイケル・ヘイズ
- 撮影
- ロバート・バークス
- 音楽
- リン・マーレイ
- 出演
- ケイリー・グラント
- グレイス・ケリー
- シャルル・ヴァネル
- ブリジット・オーベール
- ジェシー・ロイス・ランディス
連続して宝石が盗まれるという事件が発生、警察は“キャット”という異名をとった元宝石泥棒のジョン・ロビーを疑いロビーの家を訪れるが、ロビーは巧みに逃げ出し、昔のレジスタンス仲間のところを訪ねる。そして、自ら偽の“キャット”の捜索に乗り出すが…
ケイリー・グラントにグレイス・ケリーというアメリカでのヒッチコック映画の常連によるライトなサスペンス。
これはまたしても「無実の罪を着せられた男」の物語であり、しかも主役のふたりはケイリー・グラントとグレース・ケリーということで、いかにもヒッチコック的だという印象を受ける。そして、グレイス・ケリー演じるフランシスと母親との関係は母親による抑圧というもうひとつのパターンの変形であると言うことも出来るから、これもきわめてヒッチコック的な形だということができるだろう。
しかし、この映画には何かが足りない。
確かに犯人探しの過程は面白い。「こいつが犯人じゃないか」と思わせるような目配せがそこかしこにあって、フランソワだって犯人足りうるのではないかとも思えるくらいだから誰が犯人かわからないのだ。ケイリー・グラントも魅力的だ。でも、それだけではただの並みのサスペンス、いくらグレイス・ケリーがその魅力を振舞っても、それで何かが変わるわけではない。
母親による娘の抑圧という物語もどこか浮ついた感じを受ける。その物語は映画に何の影響も与えない。それはこの映画が男性中心主義であるというヒッチコック映画の特性を浮かび上がらせるにとどまる。
細かく見ていくと、これは普通のヒッチコック映画のように見えてくるのだが、しかしやはり何かが足りない、何かがおかしいのだ。
何が足りないのか、という疑問を解く鍵になりそうなのが映画の終盤にある。それはパーティーの会場となる屋敷の庭を延々と映し出す無人のショットだ。何分かの無人のショットが続いた後、「ロビーだ!」という声が響き、捉えられたロビーが映り、暗闇の中で誰かがレンチで殴られ、次に誰かがが海に投げ込まれるシーンがロングショットで映し出される。そして、その声を聞きつけた人たちが落ちた人物を見ると、それはロビーではない。
このシーンの疑問は2つある。まずひとつは、なぜ無人のショットがそんなに長いのかということだ。薄暗い森をいくつかのカットに割って延々と映すその理由は何なのかということ。もうひとつは、なぜ捉えられたときクロースアップで捉えられたのが「本当の」ロビーだったのかということだ。
そしてこの2つの疑問から沸いてくる決定的な疑問は「ロビーはどこにいたのか?」「ここに映されているものを見ていたのは誰なのか?」というものである。
この映画は基本的にロビーの視点から組み立てられている。ロビーが見たもの、あるいはロビーが経験したことによって映画が組み立てられ、それによって観客はロビーの立場に立って犯人探しに参加することができるようになっている。だから、この森の無人のシーンが始まったときも、そこにロビーがやってきたのだろうと思ってそのシーンを見始めるのだ。しかし、それがあまりに長く続く。あまりに長く同じようなシーンを見せられることによってどこかで異化作用が働いて、観客の心はロビーから離れて行ってしまうのではないかと思う。そして、その観客の無意識的なロビーとの距離感を実証するかのようにロビーは観客がいるところとは別のところで発見されるのだ。
このとき、ロビーはどこにいたのか。ひとつの解釈は、ロビーはそこにいて、捕まったけれど、逆にその捕まえた男をがけの下に投げ落としたということだ。しかし、そうすると、もう一人いたはずの男(暗い影で見ると、そこには3人の男がいるように見える)はどこに行ったのかという疑問が残る。
もうひとつの解釈は、ロビーは最初からまったくそこにはいなかったという解釈である。しかし、その場合には、「それではそのようにその男をロビーと見間違えたのは誰なのか?」という疑問が生じる。その時、観客はそれまでとはまったく違う視点から物語を見ることになるのだ。ロビーの一人称的な視点ではなく、別人の一人称の視点で物語を見ることになってしまう。
結局、私にはそのどちらの解釈が妥当なのか判然としなかった。しかし、おそらく無意識のうちに後者の解釈を取っていたのだと思う。それ以降のシーンでは一貫してロビーは他者のように振舞っているという印象を持ったからだ。舞踏会のシーンでも、最後のクライマックスとなるべきシーンでも、そこにはスリルがない。「私は誰なのか」そんな疑問が頭をよぎった。