潮騒
2005/1/11
1964年,日本,82分
- 監督
- 森永健次郎
- 原作
- 三島由紀夫
- 脚本
- 棚田吾郎
- 須藤勝人
- 撮影
- 松橋梅夫
- 音楽
- 中林淳誠
- 出演
- 吉永小百合
- 浜田光夫
- 清川虹子
- 菅井一郎
- 前野霜一郎
- 石山健二郎
- 松尾嘉代
- 高橋とよ
- 原恵子
伊勢海と太平洋の間に浮かぶ神島、そこの漁師たちの一人である新治はまだ18歳ながらに海女の母を支え、幼い弟の修学旅行代を稼ぐ。そんな新治が、島随一の船持ちである「照ジイ」のところに帰ってきた孫の初江に一目惚れしてしまう。噂では初江の婿は大学での龍二に決まっているようなのだが…
三島由紀夫の同名小説の2度目の映画化。吉永小百合と浜田光夫というおなじみのコンビで純情な恋愛者に仕上がっている。
この映画には三島由紀夫という名前からイメージされる激しさや淫靡さはない。それは映画化に際してソフトにしたというわけではなく、原作からして、ある意味では三島由紀夫らしからぬ純情な物語なのである。だから、この物語の主人公を吉永小百合と浜田光夫が演じるというのも非常に納得がいく。60年代日活の純情路線は完全にこのふたりが担っていたのだ。
この作品は、特にその純情さが切なくキュンと来る。浜田光夫というのはどうも二枚目という感じがしないが、その少し田舎くささを感じさせるところが純朴な青年を演じるのに適しているのだろう。彼が一途に思う青年を演じると、その相手(ほとんどの場合は吉永小百合だが)は神々しいほどに美しく見えるのだ。もちろん吉永小百合の可憐さは言わずもがななのだが、それを引き立てるのは浜田光夫なのだろうと思う。
ちょっと気になるのは、この二人の作品が盛んに上映されていた当時、浜田光夫はどのように捉えられていたのだろうかということだ。吉永小百合は「サユリスト」なる言葉が生まれるほどに青年たちの憧れの対象だったわけだが、浜田光夫は石原裕次郎や小林旭や赤木圭一郎のようにスターとなっていたのだろうか? いまではもう吉永小百合の相手役というイメージのみが残っている感じなので、ちょっと気になった。
さて、映画の話に戻ろう。この映画はそのように非常に純情で切ない純愛物語なわけで、完全にハンカチものの青春ドラマと見ることができるし、その種の作品としては完成度が高い部類に入ると思う。それだけで映画として充分に面白いと言えるわけだが、その中心的なプロット以外の部分にもさすがは三島由紀夫の原作だと思わせるところがある。
ひとつは、彼らふたりを囲む環境である。彼ら、あるいは上島というところには、見事に田舎の狭量さとおおらかさが共存している。一般的には田舎というところは保守的で狭量なところだと思われがちである。確かに、因習や価値観が変化しにくいという意味では非常に保守的であるわけだが、現在のわれわれの風俗習慣から見ると、非常におおらかな社会でもあったのだ。特に(性風俗も含めた)人間関係という点においては今よりもおおらかなものだったのではないかと思う。それは現在の価値観というモノが西洋のキリスト教的な価値観に強く影響されているからだ。人類学的な考察によれば、日本人の性に対する態度は現在よりも昔(おそらく明治頃までのことだろう)のほうがおおらかだった。この作品の舞台となっているのはもちろん戦後だが、田舎は保守的である分だけそのようなおおらかさが残っていたのだろうと思う。
そのような田舎の雰囲気はこの映画にリアリティを与える。非常に単純な純愛物語がこれほどまでに感動的になるのは、その舞台にリアリティがあるからだ。
もうひとつは、神社と信仰が意味を持ってくるということだ。映画は神島の説明(その名前からして神の存在を感じさせる)とその中心にある神社に対する島の人々の信仰を語る。そして新治も神社に漁と島についての願をかけ、ついでに初江との関係についても願をかける。映画のプロット上ではこの神社の存在は必要というわけではないが、三島由紀夫という人物像にはつながっていく。映画を観ていて原作者が連想されるということの是非はともあれ、この神社というようその導入はこれが三島由紀夫の作品であることを強く意識させるのだ。
三島由紀夫のファンがどう思うかはわからないが、この映画はシンプルで面白く、ついでに三島っぽさも味わうことができるというところだろうか。