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細雪

2005/1/12
1983年,日本,140分

監督
市川崑
原作
谷崎潤一郎
脚本
日高真也
市川崑
撮影
長谷川清
音楽
大川新之助
渡辺俊幸
出演
岸恵子
佐久間良子
吉永小百合
古手川裕子
石坂浩二
伊丹十三
岸部一徳
桂小米朝
江本孟紀
細川俊之
三宅邦子
小林昭二
上原ゆかり
仙道敦子
preview
 時は昭和十三年、京都に花見にやってきた蒔岡家の四人姉妹と次女の婿の貞之助。長女・鶴子は銀行員の辰雄を婿にとって本家を守り、次女・幸子は百貨店で働く貞之助を婿にとって分家を作って、雪子と妙子というふたりの妹を引き取っていた。もっぱらの話題は雪子の縁談だが、そこに「5年前の事件」が暗く影を落とす…
 大阪の旧家を舞台に、四姉妹のそれぞれの一年を描いた谷崎の同名小説の映画化。四姉妹それぞれのキャラクターに時代がこめられ、それを市川崑が一風変わった雰囲気の映画に仕上げている。
review

 この映画は全てが「おかしい」のではないかと思う。それは面白くないということではなく、とにかくおかしくて、それが面白いということである。昔に読んだ原作の印象ではそのような「おかしさ」は感じなかったような気がする。しかし、谷崎の小説には常にどこかに「おかしさ」が漂い、それが艶やかな魅力ともなっていることを考えると、この原作にも「おかしさ」があったのだろう(谷崎の作品という先入観でそのおかしさは読む前から中和されてしまっていたのかもしれない)。しかし、映画化されることによってその「おかしさ」は加速度的に増しているように思える。
  それを象徴的に示すのが映画の始まり方である。映画は花見のシーンから始まるが、原作ではそうではなかったはずである。
  ただ、そもそも原作は4年以上に渡る物語であるのに対し、映画のほうはおよそ1年の物語であるし、物語そのものも変えられているから比較することに特に意味はないということも言っておきたい。重要なのは、原作と違うということではなく、花見のシーン(原作では何度もある)を冒頭に持ってきたということなのだ。
  この花見のシーンの桜は美しいというものを超え、恐ろしいほどの色彩を放つ。桜という花が狂気を象徴する(人を狂わせる)花であることを言うまでもなく、この桜のシーンからは狂気の匂いが漂ってくる。そして、さらに雪子の見合いの相手の母親が精神病であるというご丁寧なエピソードまで挟まれるのだ。これを見ただけで、この映画には狂気が付きまとうのでは、という予感がよぎる。
  そしてモチーフとしての狂気ということに加え、この映画のいっとう最初のシーンが幸子と妙子の真正面からのクロース・アップショットの切り返しの繰り返しであることで、映画としての「おかしさ」を感じる。真正面から人の顔を捉えた切り返しというのは非常に居心地が悪いのだ。なぜなら、そのふたりが向き合っているとしたら、観客である私はそのふたりの真ん中に挟まれて小人のようにちじこまって巨人であるふたりを見上げているかのような感覚を覚えざるを得ないからである。そんな居心地の悪さを映画の冒頭から味あわされ、これは「おかしな」映画であると確信するのだ。

 そのような予感は裏切られることはなく、映画は一貫しておかしいまま進んでいく。そのおかしさの最大の要因は、映画の流れが非常にギクシャクしているということである。スムーズに流れていた映像や会話の流れが、まったく関係ないカットや言葉によってブツリと断ち切られる。そのような断絶がたびたび繰り返され、そのたびに私は言いようのないおかしさを感じ、ニヤリとしてしまうのだ。よく考えてみれば、この「おかしさ」というのは映画の内容とはまったく関係がない。映像上の、あるいは脚本上のいたずらである。そのいたずらが原作の世界に加わることによってこの映画は名作になったのだともいえるのではないか。そして、それこそが監督・市川崑の天才たるゆえんだともいえるのだと思う。

 ということだが、もちろん内容たる物語も面白い。戦争の足音が聞こえる昭和10年代も後半、凋落していく名家の姿。名家が凋落していく姿と言えば、太宰の「斜陽」を想い出すが、この作品はそれとはまた違った形で時代の変化を切り取っている。彼女たちが名家の伝統を引きずっていることは確かだ。明確に言葉にされる「本家へのこだわり」ということだけではなく、たとえば女中に対する態度ひとつからでも、その伝統の残滓を嗅ぎ取れる。そんな中、末娘の妙子/こいさん(ちなみに「こいさん」とは良家の末娘を呼ぶ関西地方の言葉、特に大阪の商家でよく使われていたらしい)だけは、その伝統を振り払っている。その妙子には啓造(啓ボン)が対照され、啓造の家の元番頭である板倉がその対照をさらに引き立てている。そのことで妙子という存在が、特に長女の鶴子と比較されていることが明らかになる。そんな中、幸子は伝統にかなり引きずられているが、中立的な存在となる。さて雪子は、ということになるが、この雪子というのがかなり厄介な存在なのである。
  物語は雪子の縁談を中心として展開していくわけだから、基本的には雪子が主人公なわけだが、まったく何を考えているのかわからないのだ。電話恐怖症で、普段はぼやんとしていて、しかし意固地なところもある。実は非常に計算高いのかもしれないとも取れるわけだが、本当のところはどうなのかわからない。
  この雪子についてひとつ気になるところがあった。それは、東谷との見合いの後、東谷が雪子を梅田で食事をしないかと電話をかけてくるシーンである。このとき幸子は家を出ていて、雪子は女中の春に幸子を呼びにいかせる、幸子は急ぎ戻ってくるのだが、ときすでに遅し、電話を切った後だった。そこで、雪子は「都合が有りますからと言って断った」といい、幸子もそれを受け入れる。しかし、しばらく後のシーンで唐突に雪子が受話器を持って呆然としているカットが挿入されるのだ。果たしてこのシーンが意味するものは何なのか?
  映画の序盤では「5年前の事件」というものが謎として提示され、雪子にとってそれがある種のトラウマになっているような描かれ方をしている。しかし、その謎が明らかになり雪子にはそれほど関わりのないことだったことが明らかになる。しかし雪子はまだどこかおかしいのだ。そこで、電話恐怖症に何かのトラウマがあるのではと考えてしまったわけだが、それがゆえに雪子は結局東谷からの電話に出ることが出来ず、一方的に切られてしまったのではないかと邪推する。そして、幸子には嘘をついたのではないかと。そう考えたところでそれにいったいどんな意味があるのかと問われるとわからないのだが、そこには雪子という不思議な存在の心の底にあるヌルリとしたものが浮かび上がってきているのではないかという気がするのだ。
  その雪子のおかしさを吉永小百合は見事に演じきっていると思う。5年前の事件のその時以外には台詞らしい台詞もあまりなく、ただポヤンとしているだけという役をなかなか魅力的に演じているのだ。この映画は誰の映画化といわれれば、吉永小百合の映画だと答えられるほどに、見事だと思う。

 もうひとつ、この映画の魅力といえば着物であるだろう。演出上でも帯のクロースアップがあったり、雪子のために誂えられたという花嫁衣裳一式がゆっくりと映し出されたり、帯がキューキューなるというエピソードがあったりと、かなり意識的に着物を使っている。この映画が撮られたの80年代であり、着物はすでに生活からほとんど消えてしまっていた。そんな中で日常着としての着物にスポットを当てる。それは谷崎が象徴する日本的なるものへの回帰なのか。時代設定がしっかりしてしまっていることで、着物というものは違和感を生じせしめない。着物は「おかしさ」を生む源泉とはなっていないのだ。とすると、着物とはこの映画で唯一まっとうなものだったのかもしれない。生活から失われてしまったからこそ、まともに正面から描く。
  そこに生じる現実とのギャップはこの映画が描く世界を現実から切断してしまう。それは谷崎の世界を観客が生きる80年代の世界から切断してしまうということを意味する。しかし映画は「おかしさ」を通じて観客とつながってしまう。われわれ観客は映画を観終わることで、現実とは切断された谷崎の世界からは抜け出すことが出来るが、「おかしさ」によって表現された世界からは抜け出すことが出来ない。それはヌルリとした塊となってわれわれの心に残ってしまうのだ。
  そのことは、ラストシーンの不可解さによっても強調される。この映画のラストシーンは、雪子が嫁に行ったことで貞之助が落ち込み、料亭でひとり酒をあおるというシーンである。貞之助は幸子の夫で、確かに映画中でも雪子に気があるようなそぶりを見せ、幸子はそのことで夫を非難するし、雪子を夫から離そうともする。しかし結局、ふたりはどうにもならないし、雪子のほうは何のアクションも起こさない。にもかかわらず、貞之助は雪子が嫁に行ったことで、どうにもやるせない気持ちになってしまうのだ。その不可解さはどうしても解決することが出来ない。
  そしてさらにそれが映画の決定的な最後に来てしまうということ。そのことで貞之助のもやもやとして心持は浮かび上がってくるが、そもそもうやむやだった映画の主題は暗闇にも等しい霧の中へと投げ込まれてしまうのだ。
  「いったい何についての映画だったのか…」そんな戸惑いを残したまま、彼らは遠くへ去ってしまったのだ。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本60~80年代

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