バーチュオシティ
2005/1/16
Virtuosity
1995年,アメリカ,106分
- 監督
- ブレット・レナード
- 脚本
- エリック・バーント
- 撮影
- ゲイル・タッターサル
- 音楽
- クリストファー・ヤング
- 出演
- デンゼル・ワシントン
- ケリー・リンチ
- ラッセル・クロウ
- スティーヴン・スピネラ
- ウィリアム・フォーサイス
- トレイシー・ローズ
仮想現実の世界で犯人を追っていたパーカーは元警官の服役囚で、シュミレーション装置の実験台となっていたのだ。その仮想現実のプログラマーであるダリルはアンドロイドの技術者をだまして彼が作り上げたその究極の犯罪者SID6.7を現実化させるが…
デンゼル・ワシントンにラッセル・クロウという豪華な顔ぶれの近未来SFアクション。いい役者が出ている割にはプロットもアクションもパッとせず、CGも今から観ればお粗末なもの。
この映画のプロットはいわゆるロボット者の亜流である。小型の人工知能が実現されて、それをロボット(ここではアンドロイド)に接続することができ、人間のように動くことのできるハードができれば、そのような話は実現するというわけだ。そんな途方もない話の舞台が1999年に設定されているのも相当な驚きだが、それはともかくとしても、このプロットはあまりにお粗末過ぎる。 そもそもサスペンスが成立するためには、どこかに制約がなければいけない。相手が人間ならば、そもそも行動パターンなどを予想することができ、それがまず制約になるのだが、相手がロボットの場合にはそのような制約がないので、物語を展開させる前にその制約を設定しなければいけないはずだ。それが、この映画のSID6.7の場合には自己進化型で、何でもできてしまう。ハード面では損傷した場合にはガラスを利用しなければいけないという制約はあるが、そもそもの性能面での制約はまったくない。もしかしたら空も飛べるかもしれないし、地球を持ち上げることだってできるかもしれないのだ。実際、映画が進むにつれてこのSID6.7の能力はどんどん上がって行っているように見える。それも観客には何の説明もなしに。
これはもはやSFではなく、ただただ幻想を垂れ流しているだけの夢物語だ。そこにサイエンスなどはまったくない。いわば子供が「大きくなったら仮面ライダーになる」(例が古いか…)と言っているようなもので、そこにはリアリティのかけらも存在しない。そもそもリアリティが存在しないなら、いくら役者の演技がうまくても、CGが見事でも関係なくなってしまうのだ。
ハリウッド映画のすごいところは、それが嘘だとわかっているのについつい手に汗握ってしまうというところだ。嘘だとわかっていながら、そこにリアリティを感じてしまう。だから映画に入り込んでしまう。そのようなリアリティがこの映画にはかけている。
そしてもちろん、その代わりにメディア批判やハリウッド批判が盛り込まれているわけでもない。ただ大衆が好むとされている権力の悪という当たり前のテーマをなぞっているだけなのだ。
この映画に見所があるとすれば、ラッセル・クロウの悪役っぷりだろうか。ラッセル・クロウの役どころはこのリアリティのない映画のもっともリアリティのない存在である。だから何をやってもよく、何をやっても嘘にならないし、おかしいとも感じない。制約があるとすれば悪人を演じるということだけなのだ。その中で自由に悪人を演じるその姿は爽やかすらある。複雑なキャラクターを演じることが多い中で、ここまであっけらかんとした姿を見るのも面白いかもしれないと思う。