1980
2005/1/22
2003年,日本,123分
- 監督
- ケラリーノ・サンドロヴィッチ
- 脚本
- ケラリーノ・サンドロヴィッチ
- 撮影
- 鈴木一博
- 音楽
- 岸野雄一
- 出演
- ともさかりえ
- 犬山イヌコ
- 蒼井優
- 串田和美
- 山崎一
- 田口トモロヲ
- 及川光博
- みのすけ
1980年、ジョンレノンが殺された翌日の東京、テクノ少年の衣笠は同級生の羽柴リカに憧れていた。そんな学校に元アイドルの一之江キリナこと羽柴レイコが教育実習生としてやってくる。実は、リカとレイコと同校教師の歌川カナエの3人は姉妹だが、3人はそれを隠し通そうとする。
ナイロン100℃の主宰者ケラリーノ・サンソロヴィッチの初監督作品。1980年という時代の持つ雰囲気を見事に表現するが、基本的にはコメディ映画。
この映画はコメディとして面白い。さすがは演劇界では屈指の名演出家だけあって、笑いのつぼを心得いている。特に自分の劇団の看板女優である犬山イヌコを主役級に使うことで、演出を自由にできるようにしたということも大きいだろう。まず一番面白いのはこの犬山イヌコ演じるカナエの台詞や間のとり方であるが、ともさかりえもそのケラ・ワールドにすんなりと溶け込んで、かなりの面白さを発揮している。
ただ、この笑いはかなり微妙なバランスの上に成り立っているので、はまる人にははまるが、つまらない人にはまったくつまらないのではないかと思う。同じ演劇出身の監督といえばまず三谷幸喜を思い出すが、ケラの笑いは三谷幸喜の笑いほどにわかりやすい笑いではない。映画の中にB&Bの漫才を見ているカナエに父親が「今の何が面白いんだ?」と聞くシーンがあるが、このシーンは実に見事なこの映画自体に向けた皮肉になっている。何が面白いんだ?と聞かれても説明できない何かがこの映画の面白さのベースになっているのだ。
そして、そのベースとなっているものこそが1980年なのかもしれない。そういえば私も子供の頃「これ何が面白いの?」と聞かれて、言葉に詰まった記憶があるが、それはその笑いが“時代性”にどこかで拠っているからだったのではないかと今は思う。別に80年そのものがネタになっているものばかりではないのだが、この映画で笑うにはこの80年の雰囲気にまず入り込まなければならないのだ。
それは80年を若者として経験した人にはたやすいが、そうではない人には難しいだろう(が、不可能ではない)。別に本当に経験していなくても、あとあと得た情報が捏造された記憶というか、その時代を経験したような錯覚を記憶としてとどめることもありえるからだ。私は80年といえば、まだほんの子供でYMOとかテクノとはまったくふれあいはなく、「ライディーン」といえばアニメ(再放送)だった。それでもこの映画にはすんなり入ることができたのは、私の青春時代(?)にはそんな80年の雰囲気が強く残っていたからだ。わたしたちの世代のヒーローたちはまさに80年に青春を送っていたような人たちだったのだ。
それでもやはり、この80年という限定された時代の雰囲気にずっぽりはまることができる人というのはこの映画を見る観客の全体の中では少ない割合になってしまうのかもしれない。
そういう意味では、カラリーノ・サンドロヴィッチは確信犯的に万人受けしない作品を作ったのだといえる。厳密に1980年(の最後の一ヶ月)という瞬間に舞台を限定し、しかもそれをノスタルジーによってではなく、リアルタイムの出来事のように描く。そのことによって映画に入り込むことができる観客を限定してしまうのだ。誰もが楽しめるようにするならば、ノスタルジーの霞で包んで「古きよき時代」というムードを作ればよかったわけだが、あえてそれはしなかったのだと思う。
その代わり、その雰囲気を共有できる人は、惜しみないサービス精神で楽しませようとする。この映画のディテールには相当なこだわりが感じられる。街を歩く人々のファッションや使う小物なんかの目に付きやすいものは当然のこと、街並みに至るまで緻密に作りこまれている。旧札(もう2世代前になってしまった)も、黄色い公衆電話も懐かしい。
それからもう四半世紀近くがたったが、いったい何が変わったのだろう。世の中はよくなったのだろうか? 便利になったけれど、人々は幸せになっただろうか?
ひとしきり笑ったあと、最後には何かしんみりとする。80年に10代だった人にまず見て欲しい。