ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方
2005/1/28
The Life and Death of Peter Sellers
2003年,イギリス=アメリカ,125分
- 監督
- スティーヴン・ホプキンス
- 原作
- ロジャー・ルイス
- 脚本
- クリストファー・マーカス
- スティーブン・マクフィーリイ
- 撮影
- ピーター・レヴィ
- 音楽
- リチャード・ハートレイ
- 出演
- ジェフリー・ラッシュ
- シャーリーズ・セロン
- エミリー・ワトソン
- ジョン・リスゴー
- エミリア・フォックス
- スティーヴン・フライ
- スタンリー・トゥッチ
1950年代のロンドン、BBCのラジオ番組「グーン・ショー」で人気者となったピーター・セラーズは映画俳優になるためにオーディションに行くが、年齢があわない、ハンサムではないなどという理由で断られる。母親に「チャンスはもぎ取るものだ」と言われたピーターはあることを思いつく…
『ピンク・パンサー』シリーズのクルーゾー警部などを演じたイギリスの喜劇俳優ピーター・セラーズ、その破天荒な生涯を描いた伝記映画。ジェフリー・ラッシュが見事にピーター・セラーズになりきっている。
この映画を見て、まずピーター・セラーズの映画、たとえば『ピンク・パンサー3』が見たくなることは確かだ。それだけこの映画は役者ピーター・セラーズを魅力的に描いているということで、伝記映画としては成功しているといえるだろう。しかし、役者としてのピーター・セラーズではなく、一人の人間としてのピーター・セラーズについてはどうだろうか。私の感想としてはとてもこんな人には共感できないと思った。ピーターはいつまでも子供で、自分勝手で、短気で、人を思いやることができない。破天荒で興味深くはあるが、実際関わったら不愉快なことこの上ないのではないかと思うのだ。
しかし、この役者としての魅力と、私人としての魅力のなさ、この二つの要素が存在するからこそこの映画は成り立っているともいえる。
それはまず、ピーター・セラーズの映画を観たくなる理由のひとつというのが、彼が自分自身を空っぽの器のようなものと言っているということだからだ。空っぽの器であるからどんな人物にもなれる、しかし演じている人物を拭い去ってしまったら、実はそこには何も残っていない。自分でそんなことを言う人物がいったいどんな演技をするのか、あるいは彼の演技のどこにそのような性質があるのか、ということを実際の映画を観て確かめてみたくなるのだ。
そして、観客の渇望感をあおるようにこの映画には本当のピーター・セラーズは一切登場しない(と思う)。実在する映画を引用するシーンでも、本物の映像は使わずに、ジェフリー・ラッシュがわざわざ同じシーンを演じるのだ。この本物のピーター・セラーズの絶対的な欠如というのが実に面白い。別に観客にピーター・セラーズの映画を観てもらおうとして作られた映画というわけではないのだが、どうも観客をその方向に導いて行っているようではある。
私人としてのピーター・セラーズのほうはとにかく孤独な男だ。この映画は孤独をテーマにした映画だと言っていいほどに、ピーターの生活は孤独に貫かれている。孤独感を笑いで埋めようとしていた、と書くと陳腐になってしまうけれど、彼が孤独であるがゆえにおどけた態度をとるというのは確かなことだろう。しかもそれは孤独から逃れるためではなく、孤独であり続けるためなのだ。彼は孤独であることで笑いを生み出すことができる。したがって笑いを生み出し続けるためには孤独であり続けなければならないのだ。
それは考えてみれば悲惨なことだ。だから彼は、いつも打ちひしがれ、上っ面の裕福さに満足しているようなフリをしていなければならない。そして、周りの人が去っていく理由を自分に納得させるために自分に嘘をつかなければならない。 ジェフリー・ラッシュがピーター・セラーズ以外の人物を演じて舞台裏を見せるというシーンは、そのようなセラーズの自分への言い訳を劇化したものだ。彼はおそらく自分の人生をもひとつの映画に見立て、周りの人々の行動を自分が納得できるように解釈しなおし、自分でそのように演じ直して、自分の人生を書き換えて行っていたのだろうということをこれらのシーンは語っているように思える。彼は自分の人生を自ら語りなおすことによってかろうじて孤独に耐え、かろうじて正気を保っていた。そのように思えてならない。
この映画がコメディアンの物語であるにもかかわらず、果てしのない悲壮感と孤独感を帯びているように見えるのは、彼の人生がそのような悲壮感と孤独感に支配されていたからだ。