スクール・オブ・ロック
2005/1/31
The School of Rock
2003年,アメリカ,110分
- 監督
- リチャード・リンクレイター
- 脚本
- マイク・ホワイト
- 撮影
- ロジェ・ストファーズ
- 音楽
- クレイグ・ウェドレン
- 出演
- ジャック・ブラック
- ジョーン・キューザック
- マイク・ホワイト
- サラ・シルヴァーマン
- ジョーイ・ゲイドス・Jr
- ミランダ・コスグローヴ
- ケヴィン・クラーク
- レベッカ・ブラウン
- ロバート・ツァイ
- マリアム・ハッサン
ロックに人生をかけるデューイは家賃を払っていないことでルーム・メイトのネッドの恋人パティに立ち退きを迫られる。デューイはバンド・バトルで優勝して2万ドルを稼ごうともくろむが、今度はバンドをクビになってしまった。そのときネッドにかかってきた代用教員の以来の電話を、デューイは金欲しさに本人に成りすまして受けてしまう…
脇役として映画に出演する傍らロック・バンド“テネイシャスD”でカルト的な人気を誇ってきたジャック・ブラックが大ブレイクした作品。夢とユーモアにあふれた“教育的”映画。
「ロックとは反抗である」という言葉はもう意味をなくしてしまった。だれもがロックが反抗だったのは昔の話だと思っている。しかし、この映画はロックは今も反抗だと、いや反抗していないものはロックではないと言っているのだ。そして、ロックとは音楽であると同時に生き様であり、思想なのだと。「大物<ザ・マン>」に反抗し、反抗することそのものに人生を見出すのだ。それが徹底的に描かれている。
そして、この映画の眼目はなんと言っても主人公のデューイというキャラクターである。教師という立場、リーダーという立場、子供に対して大人という立場、そのような立場に立つことで自然と権威的な振る舞いに陥ってしまいがちだし、自ら生徒たちに服従を誓わせるわけだが、彼は決して<ザ・マン>にはならない。常に子供たちの言葉を聴き、彼らの特性を汲み取り、彼らがやりたいことをやらせて、彼らの反抗の芽を摘み取らない。教師という意味で教室の支配者である自分を生徒たちに批判させることによって生徒たちに反抗の意味を教える。この一貫した姿勢には深い意味が込められているのではないだろうか。
この子供たちが体現しているのは、権威にしたがように教育されてきたわれわれの姿である。まず親という権威によって(愛情という鎖によって)反抗すること自体を押さえつけられ、その権威はそのまま学校へと摩り替えられ、教育の名の下に従順であり続けされる。そして大人になれば金というすべてを支配する力によって権威に従わせられるのだ。しかし、誰もが常に反抗心というモノを抱えて生きてきたはずで、どこかで反抗したいと思っているに違いないのだ。
デューイは子供たちのその反抗心をうまく引き出す。まず自分がその標的になることによって自分も仲間になって、さらに大きなものに対して反抗しようとするのだ。子供たちはそのような大人に出会ったことが無いから、それに面くらい、自ら気づく。自分たちがいかに抑圧されているかということに。そして反抗心を育んでいくわけだが、それがそのまま全的に反抗するということになるわけではない。それは押し付けられたものではない自分なりの価値観を構築する過程なのである。彼らがやっていることは直接的な行動によって何かを打ち倒すことではなく、自分の価値観を確立し、それを周囲に受け入れさせることである。そして共感を得て、仲間を増やすことである。絶え間なく襲ってくる<ザ・マン>の圧力に気づき、それに反抗し続けるために。
この映画は確かに甘っちょろいけれど、ロックってのは実は甘っちょろいものなんだ。とがっているばかりがロックではない。ロックとはロマンでもあるのだ。と、ツェッペリンを聞きながら考えました。黒板に書いていたロック相関図、もう少しゆっくり見せて欲しかったなぁ…
!!!!!ネタばれです!!!!!
結論も言ってしまえば、結局その反抗によって<ザ・マン>をひっくり返すことはできない。最後のバンド・バトルの結末が出来レースだというのは明らかなのだ。この映画の結末がわれわれに推測させるのは、デューイがバンドをクビになった時点で、すでにバンドにはメンバーの入れ替えの代償にバンド・バトルでの優勝とプロ・デビューの話が来ていたのだろうということ。それはこの大会自体がスポンサーによって運営されていること(ステージのバックにペプシの広告がかかっていたりする)などから推測されるようになっている。
だから“スクール・オブ・ロック”はもちろん優勝することは出来ない。彼らは本当のロックをやっているから、優勝してしまったら逆に困るともいえるのだ。その代わり、彼らは観客の心をつかみ、彼らを反抗する側に引き込んだ。少なくとも、その場では彼らは反抗心を解放させたのである。
したがって、この映画の結末はこれ以外にはありえないのだ。彼らが売れっ子バンドになってMTVに出たりしてはいけないのだ。世に出るとしたら既存の価値観を破壊するやり方で出なければならない。この映画は「またな」という言葉で終わるが、それは別に続編が作られるという意味ではない(作られるかもしれないけど)。それは多分、ロックは決してなくなることは無く、繰り返しやってくるということを意味しているのだろうと思う。