ピエロの赤い鼻
2005/2/3
Effroyables Jardins
2003年,フランス,95分
- 監督
- ジャン・ベッケル
- 原作
- ミシェル・カン
- 脚本
- ジャン・ベッケル
- ジャン・コスモ
- ギョーム・ローラン
- 撮影
- ジャン=マリー・ドルージュ
- 音楽
- ズビグニエフ・プレイスネル
- 出演
- ジャック・ヴィユレ
- アンドレ・デュソリエ
- イザベル・カンディエ
- ティエリー・レルミット
- ブノワ・マジメル
- ダミアン・ジュイユロ
- シュザンヌ・フロン
- ニナ=パロマ・ポーリー
14歳の少年リュシアンは先生をしている父親のジャックがピエロを演ることを嫌がっており、今回も満員の観客が笑い転げる中、リュシアンだけは仏頂面をしていた。それを見たジャックの親友アンドレはリィシアンを会場から連れ出し、ジャックがピエロをやり続ける理由を説明し始める…
戦争中の美しい物語を思い出語りとして語ったヒューマンドラマ。単純な感動ものではあるが、ついつい誘われて涙がホロリとこぼれ落ちる。
この映画はいわゆる「感動モノ」だと思う。オイオイと号泣するような話ではないが、ホロリと涙がこぼれる。ものすごい悲劇とか、英雄譚というわけではなく、地味でシンプルなのにどうしてか感動してしまうのだ。こういう映画には時々出会う。見ているうちにぐんぐんと映画の世界に引き込まれて行って、なんだかよくわからないけれど感動して涙がこぼれる。映画館でまわりを見回してみると、3分の1ぐらいの人が鼻をすすっていたりする。でも、隣ではおじさんがいびきをかいている。佳作だけれど、観る人によってはストンと心のうちの落ちてくる。この映画もそんな映画である。
そんな映画だから、見終わってみて「いい映画だなぁ~、感動したなぁ~」と思いはするものの、いったい何に感動したのかは判然としないまま、なんとなくいい気分で帰りの電車に乗る。そしていつの間にか忘れてしまう。
そんな映画だから、そんな見方をして、「ああよかった」で十分なわけだけれど、私はどうしても「いったい何が感動的だったのだろうか」と考えてしまう。それは悲しい性であるが、それでもやっぱり、このなんでもない映画が人を感動させてしまうのは、いったいどのような構造によるのだろうか、と考えてみた。
私がこの映画を見ていて、何度か頭をよぎった言葉は「汝の隣人を愛せ」というあまりにも有名なキリストの言葉である。この言葉は一般的には博愛主義のように捉えられるわけだけれど、私がここで思い浮かべたのはそのような意味ではない。この映画で語られていることは、同情とも博愛=人類愛とも違うけれど、しかし個別的な(ある意味では利己的な)愛でもないようなそんな「愛」なのではないだろうか。
ピエロになってわざわざ人に笑われるのはなぜか。それはこの映画の道筋であるが、それはジャックという一人の人間にとってなぜか、という疑問なのではなく、普遍的な意味で「ピエロになる」ということの意味を説いているのだ。人は笑うことによって救われる。悲劇的な状況にあっても笑うことで希望を持つことが出来る。つまり、ピエロは自分をネタにして人に笑われることでまわりの人々に希望を振りまいているのだ。
そして、それがもし、ただひたすらに観ている人を楽しませたいという動機から起こったことならば、それは「愛」なのではないだろうか。
と、私は思ったのだが、こう書いてしまうとどうもこの映画の最初の印象からはずれてしまっているように思えてくる。この映画で語られていることは、そんな原則論的なことではないもっと個別的で具体的なレベルの出来事なのではないか。ジャックとアンドレとルイーズとドイツ兵と、そしてリュシアンの、非常的に個人的な出来事、ただそれが描かれているだけではないのか。
われわれが感動するのは、むしろそのような原則論化したところからこぼれ落ちるものなのではないだろうか。この映画の邦題『ピエロの赤い鼻』(原題は「身の毛もよだつ庭」)がすばらしい題名だと思うのは、そのピエロの赤い鼻こそがそのようにこぼれ落ちるものの象徴であるように思えるからだ。ジャックが穴の底で握り締めるその赤い鼻とは、大きな視点から見てしまってはこぼれ落ちてしまう人間性などが凝縮しているようなものなのである。
映画のテーマとして抽出できるものよりも、そこからこぼれ落ちるものによって感動することが出来る。この映画はそのような作品だから、どうしてもホロリと涙をこぼさずにはいられないのだと思う。