父、帰る
2005/2/4
Vozvrashcheniye
2003年,ロシア,111分
- 監督
- アンドレイ・ズビャギンツェフ
- 脚本
- ウラジーミル・モイセエンコ
- アレクサンドル・ノヴォトツキー
- 撮影
- ミハイル・クリチマン
- 音楽
- アンドレイ・デルガチョフ
- 出演
- イワン・ドブロヌラヴォフ
- ウラジーミル・ガーリン
- コンスタンチン・ラヴロネンコ
- ナタリヤ・ヴドヴィナ
ロシアの田舎に暮らすアンドレイとイワンの兄弟、いつも喧嘩ばかりしているふたりが今日も家に帰ると、母親が突然「お父さんが帰ってきた」といい始めた。父親が家に帰るのは12年ぶり、兄弟は複雑な気持ちで食卓に着き、翌日3人で旅に出ることに決まって、うれしいような不安なような夜を過ごす…
他人とも言える父親との出会いを厳しく描いた人間ドラマ。2003年のヴェネチア映画祭で金獅子賞と新人監督賞を受賞した。
はっきり言ってよくわからない。この映画は視線が定まらず、誰に感情移入していいかわからず、結局何も解決しない。しかし、プロットはしっかりとあり、観客を引っ張っていく展開力もある。なんだかわからないまま見終わって、ふと考えてみると「これは抽象絵画のような映画なのかな…」という想いに囚われる。 この映画の概要はといえば、12年ぶりに帰ってきた父親とふたりの息子がいて、しかし父親はその12年間のことを何も語ろうとせず、息子たちをつれまわすが、その目的地も告げようとしない。ただ押し黙って父親らしく息子たちを「教育」する。弟のイワンは彼が父親であることすら疑う(あるいは疑うような身振りをする)。映画は父親にまつわる謎が解明されていく形で進んでゆき、実際に明らかになっていくこともあるのだが、その明らかになっていくことがさらに謎を生み、謎はなくなるどころか増えて行くのだ。
とくに、子供たちの視点に立ってみれば、父親の考えていることはまったくわからず、自分たちに対する気持ちを推察することも難しく、父親はまったくの謎であるのだ。
われわれ観客はそんな息子たちの視点に立たされたり、父親の視線に立たされたり(視線は共有するが考えていることを推測することは難しい)、遠くから3人が乗る車を眺めたり、ただただ景色を眺めたり、さまざまな視点に置かれることで途方にくれる。何とかプロットを追っていく以外に何もすることが出来ないのだ。
つまり、この映画は様々な要素がつながり、ひとつの語りを生み出してはいるのだが、それが意味するところは結局明らかにならないという映画なのである。それはまさにキャンパスの上に様々な図像がちりばめられ、それらの間に関連性はあるのだけれど、結局それが何を描いているのかはわからないという抽象絵画に(具体的にイメージしたものをあげるなら、カンディンスキーのコンポジションに)きわめて似ている。
そのことから思うのは、この映画のテーマは何か問うことはカンディンスキーのコンポジションが描いているものは何かと問うことと同じくまったく無意味であるということだ。この映画が抽象絵画であるとするならば、その意味がわからないのは当然であり、それはつまりそこに何が描かれているのかは見る側の視線にゆだねられているということなのである。
しかし、それでも観客というモノはそこから物語を読み取ってしまう。その物語はもちろん人それぞれ違うが、どうしてもそこに物語を見出そうとしてしまうというのは観客の性であるのだ。
かく言う私は、このふたりの息子の年齢の違いに意味があるように思えた。おそらく兄のアンドレイは15歳くらい、弟のイワンは12歳くらいだろう。この2、3年の微妙な違いは長く不在だった父親の捉え方に大きな違いを生んでいるのではないだろうか。イワンはほぼ徹底的に父を拒否しているのに対し、アンドレイは父親を父親として受け入れ、何とか仲良くなろうと努力しているように見える。イワンにしてみればそんなアンドレイの態度が気に入らない。
この態度の違いを説明するのに、私は精神分析学的な理論を借りたい。ありていに言えば、イワンは長く不在だった父親が突然現れたことで母親を奪われるという(無意識的な)恐怖に取り付かれたのではないかと思うのだ。ようはエディプス・コンプレックスということであり、幼児期からの父親の不在が母親との二者関係を温存し、それが父親の突然の帰還によって破られるという恐怖に襲われるのだ。
それに対してアンドレイはすでにそのような段階を克服し、父親をある種の崇拝の対象と見るようになっている。つまり、自分と他者との関係を母親との二者関係の延長としてみるのではなく、男/大人として独自に社会と対峙しようと構えているのではないかと思うのだが、この辺りは門外漢なのでいい加減なことを言っているかもしれない。
ともかく、そのように自分と父親、そして母親の関係の捉え方がイワンとアンドレイではでは大きく違うと思うのだ。それを象徴的に示しているのが映画の冒頭の湖(海?)に突き出した塔の上から飛び込むというシーンである。アンドレイは苦もなく飛び込むが、イワンは飛び込むことが出来ず、その上にひとりうずくまり、母親が助けに来てくれるのを待っているのだ。精神分析学的な分析を始めるとどんどん深読みをしてしまうので、このシーンからも意味を読み取ってしまう。このシーンにおける飛込みという行為はいわば母親との紐帯を断ち切る行為、独立した「男」となるための通過儀礼なのである。アンドレイはそれを行い、イワンは出来なかった。
そこに暗示される母との関係が、父との関係に直接的につながっていくのだ。つまりこの物語はイワンが主役のオイディプス神話の翻案なのである、と私は思う。