日本春歌考
2005/2/11
1967年,日本,103分
- 監督
- 大島渚
- 脚本
- 田村孟
- 田島敏男
- 佐々木守
- 大島渚
- 撮影
- 高田昭
- 音楽
- 林光
- 出演
- 荒木一郎
- 岩淵孝次
- 串田和美
- 佐藤博
- 宮本信子
- 益田ひろ子
- 吉田日出子
- 伊丹一三
- 小山明子
- 田島和子
大学受験のため前橋から上京した中村と3人の同級生たち。彼らは同じ試験場にいた469番に眼を留めるが、彼女の名前を知ろうという試みに失敗した帰り道、教師の大竹が女と歩いていくのを見つけて後をつける。その後、その大竹を囲んで女子3人を加えて酒席を持つのだが、そこで大竹がひとつの春歌を披露する。
日本の猥歌を集めてベストセラーになった添川知道の「日本春歌考」をヒントとして大島渚が撮った作品。4人の共同脚本に即興的な演出でアバンギャルドな作品に。
映画の前半は、なんとなく漠とした印象だ。大学受験という人生の転機におかれた思春期の青年が同時に抱える性の問題、それが「性欲的」という言葉によって表面に出てくる。そして同時に何かに反発したいという気持ち、そのような気持ちを抱えながら何か行き詰まった気持ちを抱えているというのは伝わってくる。 そして同時に、ベトナム戦争反対の署名運動や、皇紀復活反対といいながら黒い日の丸を掲げるデモ隊と、政治的なほのめかしが出てくる。
そんな中、デモ隊からはなれ、女と二人歩いていく教師・大竹を尾行し、さらに大竹と別れてひとり歩く一緒にいた女をつけていくという4人の行動には何かがあるという気がする。
しかし、そこでは何かがあるという漠とした印象があるだけで、それ以上のテーマ性や、映画としての意図が見えてこない。その印象は、中村がガス漏れを放置して、大竹を死なせてしまった後にも続く。このエピソードは大きく、衝撃的なエピソードであるはずなのに、映画ではあまりにアンチクライマックスの、取るに足らない事件であるように描かれている。そんなアンチクライマックスの中で大竹が死に、女子たちが嘆き悲しむ様子はなんとも興ざめだ。
今考えれば、ここですでにわれわれは中村たち4人にある程度擦り寄ってしまっているのだ。彼らの無感動さ、冷たさを共有してしまっているのだ。しかし、それでもまだ漠とした印象は続く。その後の469番に対する妄想もなんとも退屈だ。それはその妄想をしている彼らも、実際のところそれ程の思い入れがないからなのかもしれない。ただ「性欲的」になっているというだけで生まれてくる妄想。そこには心などないのかもしれないのだ。
このあたりまでは漠とした印象なのだが、その大竹の葬式のあたりから、あるいはその前の早苗が歌を披露するあたりから、何かが変わってくる。ひとつにはそのあたりから歌が非常に強い力を持ってくるということである。そのような状況の中で繰り返し歌われてきた「ほいのほいのほい」という春歌がボディ・ブローのように効いてきて頭にこびりつくのである。「ひとり娘とやるときにゃ、親の許しを得てえにゃならん。ふたり娘とやるときにゃ、姉のほうからせにゃならん」といまだに覚えてしまっているこの歌、この歌が頭にこびりつくという事実、それは他の歌を放逐してしまうということであり、それはつまり春歌というものがいかに力を持っているかということの表れである。
映画の終盤で、中村と大竹の恋人藤原が歩きながら、農村での性風俗について話す。この話というのが実は非常に重要なのだと思う。春歌とはそもそも農村の豊かな性風俗の中から生まれたものであり、農村では性と信仰は結びつきやすい。若者が性関係を結ぶということがある種の神事として執り行われる場合もあるのだ。
別に春歌を神に捧げる歌だというつもりはないが、農村を礎とする社会では春歌というものが力を持つのではないかと思う。その前では学生運動の勇壮な歌も、若者のフォークソングも力を失う。春歌とは、それを歌う人に性のエネルギーをみなぎらせるものである。その性のエネルギーは農村では「豊穣」につながるのである。