郵便配達は二度ベルを鳴らす
2005/2/12
The Postman Always Rings Twice
1946年,アメリカ,113分
- 監督
- テイ・ガーネット
- 原作
- ジェームズ・M・ケイン
- 脚本
- ハリー・ラスキン
- ニーヴェン・ブッシュ
- 撮影
- シドニー・ワグナー
- 音楽
- ジョージ・バスマン
- 出演
- ジョン・ガーフィールド
- ラナ・ターナー
- セシル・ケラウェイ
- ヒューム・クローニン
- レオン・エイムズ
- オードリー・トッター
放浪癖のあるフランクはサンフランシスコからサンディエゴへのヒッチハイクでの旅の途中、ロス郊外のダイナーに求人の看板を見つけ、その店に向かう。店主に温かく迎えられた彼は、店の中にいた美女にも魅かれて、働くことに決めるが、その美女は店主の若い妻だった。その妻コーラはフランクを避けるが、フランクはコーラに思いを寄せる…
J・M・ケインの小説を、43年のヴィスコンティに続いて映画化。アメリカらしいドライなハードボイルド・サスペンスに仕上がっている。ジェラール・フィリップにも似た端正な顔立ちのジョン・ガーフィールドがなかなかいい。
よくできてはいるが、当たり前というかひどく日常的なサスペンスという気もする。いわゆるハードボイルドなサスペンスというのは主人公に超人的な勇気とか冷たさとかいったものが備わっていて、それがどこか日常とは異なる世界の話であるという印象を強めているものだが、この映画の主人公たちは臆病で私たちと変わるところがないような気がしてしまう。それをリアルと捉えれば、この映画はリアリズムに徹した見事な作品ということになるのだろうが、そもそもの設定が日常で早々ありえる設定ではないということもあって、リアリズムの作品と捉えることは難しい。それよりはひどく日常的なサスペンス、何か自分自身の暗部を突かれたような居心地の悪い映画という印象である。
どうしてそのような印象になるかということを考えて行くと、それはこの映画の題名となっている『郵便配達は二度ベルを鳴らす』という言葉の意味につながって行く。
!!!!この先はネタばれ!!!!
この映画では最後の最後に「郵便配達はいつも2度ベルを鳴らす」という発言が飛び出す。そして、その比喩の意味が説明されるわけだが、結局のところその言葉で言わんとしているのは、因果応報ということだ。罪を償う。人を殺したら死をもってその罪を償わなければならないということなのだろう。
しかし、それがどうして「2度ベルを鳴らす」ということになるのか? 正直なところよくわからない。問題になるのはその郵便配達が届ける手紙なのか、それとも2度ベルを鳴らすということそのものなのか? 2度ベルを鳴らした上で届く手紙の内容はどのようなものなのか?
そのあたりを考えてみると、ここで届く手紙の内容は死の通達なのではないかという気がする。フランクは映画の中で「2度目のベルは庭にいても聞こえる」というようなことを言っていた。それが意味するのは手紙は否応なしに届くということだろう。だとすると、2度ベルを鳴らすということがつまり、死をもって罪を償うことを避けられないということになるのではないかと思うのだ。1度目のベルは無視できるが、2度目は無視できない。
ではなぜ、2度目のベルは無視できないのか? それは郵便は必ず宛て先に届かなければならないからだ。もちろん郵便は届かないこともある。その場合、届かなかった郵便は差出人に戻るわけだが、ではここで差出人となるのはいったい誰なのか? 神か?仏か?悪魔か? おそらくその差出人は受取人自身だろう。受取人自身が殺人を犯すことによって自分自身に宛てて死の通知を送ってしまった。ここで手紙が象徴しているのはそのような意味なのではないかと思う。だから、もし2度目のベルを無視したとしても、結局手紙は宛て先に届く。
では、なぜそのような映画を観て居心地が悪くなるのか。それは、この手紙が象徴しているのが“欲望”だからではないだろうか? 殺人の衝動の源泉は彼の欲望にあり、それが手紙に込められる。そして彼は欲望の要請にこたえて殺人を犯す。しかし、そこで欲望は消滅しない。欲望はただ他人に譲り渡されるだけである。その他人はここでは地方検事であり、今度は地方検事が「フランクを殺す」という欲望に駆られる。欲望はそのようにして流通し続ける。それはなぜかはよくわからないが、欲望とはそのようにして流通するものであるようだ。
そのようにして欲望が描かれることで、どうも見ているほうは居心地が悪くなる。さらに、最後にそのように流通した欲望は観客であるわれわれのもとに届いているような気がするのだ。映画の中でフランクに同一化しながらその欲望を共有してきた観客が、映画の終わりに「2度ベルを鳴らす」という謎を投げかけられることによってスクリーンの中の世界から引き離され、自分の欲望に直面させられる。自分の欲望に直面させられるというのはどうにも落ち着かないものだ。
終わり(この終わり方も落ち着かない)。