奇人たちの晩餐会
2005/2/16
Le Diner de Cons
1998年,フランス,80分
- 監督
- フランソワ・ヴェベール
- 脚本
- フランソワ・ヴェベール
- 撮影
- ルチアーノ・トヴォリ
- 音楽
- ウラディミール・コスマ
- 出演
- ジャック・ヴィユレ
- ティエリー・レルミット
- カトリーヌ・フロ
- ダニエル・プレヴォスト
- フランシス・ユステール
- アレクサンドラ・ヴァンダヌート
毎週バカを集めてバカのチャンピオンを決めるという晩餐会に参加しているブロシャンは今週のバカ探しに頭を悩ませていたが、友人が電車の中で出会ったピニョンという男がマッチ棒で工作を作るのが趣味だというのを聞き、彼を呼ぶことにする。しかし、当日ブロシャンはぎっくり腰をしてしまい、ピニョンが家にやってきたときは立てない状態で、しかも奥さんのクリスティーヌと喧嘩をしてしまって…
『Mr.レディMr.マダム』の脚本家としても知られるフランソワ・ヴェベールがフランスの個性派俳優ジャック・ヴィユレを主役に据えた、奇想天外なドタバタ喜劇。
この映画が「おかしなおじさんが巻き起こす騒動」であり、そのおじさんが間抜けだけれど憎めないキャラクターであるということを考えると、この映画はフレンチ・コメディの王道であり、『ぼくの伯父さん』の正統な嫡子であるのだろう。とにかくそのドタバタ感が面白く、そのおじさんの間の抜けた行動に翻弄される“普通”の人々のあたふた感が面白い。もちろん、それにはそのおじさんのほうを演じる役者のうまさも必要になり、その点でもこの作品はまったく遜色ないわけだ。
では、そのような『ぼくの伯父さん』型の作品がフレンチ・コメディの王道となるのは一体どういうわけだろうか。これらの作品は基本的に、普通のあるいはエリートといえるような人々が、間抜けで「負け組」ともいえるような人と接することになるという話である。『ぼくの伯父さん』の場合は兄弟だから仕方なく、この『奇人たちの晩餐会』の場合は自ら進んでそのような関係を結ぶ。そして、そのようにあり方が違う人が出会うことで表面化する“ギャップ”が笑いを誘う。笑いというのは基本的に何かと何かの間に“ズレ”が存在することによって生じるものだから、これらの作品が示す笑いの形というのは非常に始原的な笑いであるといえるだろう。
だから、実はこのような笑い自体は何もフレンチ・コメディに限らず、どんな国にも存在しているようなものなのだ。したがって、この作品はフレンチ・コメディの王道というよりは、コメディの王道と言ったほうがいいのかもしれない。
しかし、それでもどうも“フレンチ”な雰囲気も感じられる。その“フレンチ”な感じのもとは何なのかと考えてみると、それはやはりその“哲学性”にあるのではないだろうか。たしかに、多くのコメディはこの“ギャップ”から笑いを生み出しているけれど、フレンチ・コメディが独特なのは、その“ギャップ”に意識的であると感じられるということだ。
それはどういうことかといえば、観客は映画を観始めてまず笑う側(つまりエリートの側)にたたされ、彼らに同一化して、おかしな人たちの行動を笑う。この映画で言えばピニョンのマッチ箱工作への尋常ではない情熱や、彼のやろうとしていたことをすぐに忘れてしまう間抜けさ加減を笑うわけだ。それはもう爆笑もので、とにかくおかしいわけだけれど、いらだたしくもある。そして、彼の行動に苛立ちを感じているということに気づくことで、観客は自分がブロシャンに同一化していることにも気づくことになる。
そして、観客がそこまで気づいたところで映画は反転する。突然に映画の視線の中心はピニョンの側に移り、ブロシャンが笑われる番になるのだ。観客はその視線の移動についていけず、自分が笑われていることに気づくという寸法だ。その相互性になんとはなしの哲学性とフレンチな感じを感じる。
『ぼくの伯父さん』の場合にも視線のあり方は違うが、根本的には同じ構造をとる。『ぼくの伯父さん』はその題名どおりにユロ伯父さんの甥である“ぼく”の視線で物語が語られる。その視線から見てもユロ伯父さんは“ぼく”のお父さんたちにバカにされ、笑われて、彼らをいらだたせているわけだが、しかし逆に伯父さんの視線から見れば“ぼく”のお父さんたちのほうが滑稽であるという視線がずっと維持されてもいるのだ。
この相互性こそが『ぼくの伯父さん』型のフレンチ・コメディの命綱、アメリカン・コメディの馬鹿馬鹿しさや、ブリティッシュ・コメディの悲壮感から一線を画す秘訣なのではないだろうか。
まあ、そんなことを言ったところで、映画が面白くなるわけではなく、ただただ笑えばいいという気もするのだが、微かに残るピニョンを無反省に笑ってしまったという恥ずかしさが、このようなことを書かせるのだ。