女はみんな生きている
2005/2/17
Chaos
2001年,フランス,112分
- 監督
- コリーヌ・セロー
- 脚本
- コリーヌ・セロー
- 撮影
- ジャン=フランソワ・ロバン
- 音楽
- リュドヴィク・ナヴァール
- 出演
- カトリーヌ・フロ
- ラシダ・ブラニク
- ヴァンサン・ランドン
- オレリアン・ウィイク
- リーヌ・ルノー
- ハジャール・ヌーマ
- ヴォイチェフ・プショニャック
夫と急ぎ出かける車で3人の男に襲われる女性に出くわしたエレーヌ、その日は夫の言に従って知らぬフリをしたが、どうしても気になり翌日彼女の入院している病院を探し当て訪ねる。そして、昏睡状態の彼女を見てエレーヌは毎日病院に通うようになる…
『赤ちゃんに乾杯』のコリーヌ・セローがフランスに生きる女性たちの姿をたくましく描いたサスペンス・コメディ。サスペンス的な要素が強く、めまぐるしい展開がいい。
そう、女はみんな生きている。
この映画の最初は、田舎からやってきた母親が息子のアパートを訪ねるが、息子に居留守を使われて、嫁と一瞬会うだけで帰る羽目になるというエピソードに始まる。そして、続いてその嫁であるエレーヌが、今度は家を出て恋人と暮らす息子の家に行くと、息子に居留守を使われるという最初とまったくパラレルなエピソードがつなぎ合わされる。この「母親を疎んじる息子」という構図がさらにつながるのは「使い捨てされる女」という構図である。
この映画に登場する男はことごとく女をいいように使い、使い尽くして最後には捨てる。もちろん「息子」は意図的にそういうことをしているわけではないが、振り返って母親の立場にたってみれば、そう考えざるを得ないような関係が最後には成立しているということだ。そして、そのようにして「使い捨てされる女」の極端な例がノエミであるのだ。
だから、この映画はすべて女が男に対して復讐をするということに費やされる。男は女を使い捨てするけれど、実は必要がなくなる前に逃げられてしまうと途方にくれる。男は能無しだから、女がいないと何も出来ないのだ。女は男がまだ彼女を必要としている時点で男のもとから去り、男は途方にくれ、女を恨み、逆切れする。この映画が描いているのはただそれだけのことなのだが、それが実に痛快なのだ。
この映画はコメディだということになっているけれど、笑えるところはそれほどない。しかし、この映画は観客を巧妙に「女たち」の視線にいざなって、最後には高笑いさせる。間抜けな男どもを出し抜いて「わっはっは」と笑うのだ。
ひとつ、それに関して映画の見え方の話をすれば、この映画の序盤はほとんどが手持ちカメラで撮られ、ドキュメンタリー風の映像になっている。手持ちカメラの映像は動きやすいので人間の視線に近いという感じがすることも確かだが、結構ぶれがあり、見にくいということもある。この映画の手持ちカメラは見にくいというほどではないが、それでもやはりブレは気になる。しかし映画が進むにつれ、そのような手持ちカメラのショットはなりを潜め、映像は安定して行く。
これはもしかしたら、エレーヌの心を比喩的に表しているのではないかと思うのだ。夫との関係もうまくいかず、息子はすっかり大きくなって家を出てしまった。そこで自分の存在価値とはいったい何なのかという疑問に立ち返り、不安になる。その不安をカメラの不安定性が象徴しているように思えるのだ。
その映像が安定するのは、エレーヌがノエミという別の“生きがい”を見つけた後のことだ。エレーヌはノエミに出あって新たに世話を焼く対象を見つけた。エレーヌがノエミの世話を一生懸命するのは決して罪悪感からなのではない。彼女には世話を焼くべき誰かが必要なのだ。それが見つかることで不安が解消され、心が安定して映像も安定する。そのようにして映像とエレーヌの心理がリンクすることで観客はよりたやすくエレーヌに同一化することができるという仕組み。
まあ、そんな仕組みを説明したところで映画が面白くなるわけではないが、そんなところに注目するのも面白い。