乾いた湖
2005/2/18
1960年,日本,88分
- 監督
- 篠田正浩
- 原作
- 榛葉栄治
- 脚本
- 寺山修司
- 撮影
- 小杉正雄
- 音楽
- 武満徹
- 出演
- 三上真一郎
- 岩下志麻
- 炎加世子
- 山下洵一郎
- 高千穂ひづる
- 伊藤雄之助
- 鳳八千代
- 沢村貞子
- 水島弘
- 寺山修司
海辺にある木原道彦の別荘に集まった若者たち、その中のひとり下条卓也は何事にもさめていて、仲間のバカ騒ぎに付き合おうとしない。また、桂葉子は急な連絡で家に帰ることに。実は父親が汚職が発覚し、代議士の大瀬戸の圧力から自殺してしまったのだ…
60年代安保の雰囲気の中、若者たちの姿を描いた。当時ラジオドラマなどを書いていたほとんど無名の寺山修司が榛葉栄治の原作を脚本化、これが2作目となる篠田正浩が監督した。“松竹ヌーベルバーグ”という波を起こした作品のひとつ。
この作品をはじめとする“松竹ヌーベルバーグ”が語っているものとはいったい何か考えてみると、それは若者の破壊的な行動なのではないかと思い至る。時代としては安保の時代であると同時に太陽族の時代。この映画の冒頭を見ると、これも太陽族の映画かと思ったが、太陽族的な振る舞いをするのは一部分だけで、あとは安保に関わったり、あるいはどちらにも加担していなかったりする。
そのように若者たちがある種のセクトに分かれているにもかかわらず、彼らには共通点があり、それが“破壊的”であるということだ。太陽族の若者たちは大人に押し付けられる倫理観を破壊し、安保運動に没頭する若者たちは腐りきった政治を破壊することをもくろむ。そして、この作品が描くようなそのどちらにも属さない若者たちはそれらをも含めたすべてのものを闇雲に破壊しようとする。
その“破壊”への衝動を極端に純化した存在が下条卓也なのである。彼の部屋に張ってあるのは、女性のヌードとヒトラーら独裁者たちのポスター。女性のヌードのポスター、つまりポルノが象徴するのはレイプであり、暴力的に女性を“破壊”することである。独裁者が象徴するのは言うまでもなく暴力であり、既存の社会を破壊して、自分以外のすべての人の人権を奪うことである。
下条はそのようにして“破壊”というひとつの性質によってて意義付けられた存在だから、差別的な発言もするし、エゴイスティックに自分の利益しか考えない。彼は決して妥協せず、決して怯まない。
では、その下条と葉子の関係とはいったい何なのか。葉子も太陽族でもなく、安保運動にも参加していないが、決して破壊的ではない常識的な若者だ。もちろん時には若者らしい無軌道な行動もとるが、それは破壊の衝動ではなく、嫌悪感を抱かせるような大人の世界からの逃避行動である。それはつまり葉子が岐路に立っているということである。このまま逃避を続けるならば、彼女は太陽族の仲間入りをするだろう。そして逃避してきた仲間が集まることでようやく破壊に手を染めることが出来る、それは安保運動に参加するのも同じことだ。そうでなければ下条と同じ道を歩むか(下条と共闘することは決して出来ない)、妥協して大人の世界に足を踏み入れるかだ。
そんな若者たちのほとんどが太陽族や安保運動という集団に加わろうとするのは、集団の居心地のよさからだろう。団結することで力を得たような気がして、立ち上がることが出来る、そして破壊衝動をも満足させることが出来る。しかし、彼らも結局は妥協して大人の世界に足を踏み入れる。どこかで破壊衝動に諦めをつけるのだ。それを拒否して徹底的に反抗し続けるには、下条のようになるしかない。
この映画が描いているのは若者のそのようなほとばしるような衝動である。そこには理屈とか目的とか、そういった論理的なものは一切ない。そのような衝動を描いているからこそこの映画は“ヌーベルバーグ”の名を冠するのに値するのだ。松竹ヌーベルバーグが“ヌーベルバーグ”と呼ばれるのは、そのふたつが形式的に似通っているからではなく、どちらも若者のやり場のない衝動を描いているからであり、それ自体も衝動が具現化したものであるからだ。ヌーベルバーグとは究極的には、破壊衝動が映画という形に結実したものであり、すべてを破壊する映画でなければならない。