カメラを持った男
2005/2/24
Chelovek s Kinoapparatom
1929年,ソ連,67分
- 監督
- ジガ・ヴェルトフ
- 脚本
- ジガ・ヴェルトフ/h3>
- 撮影
- ミカイル・カウフマン
「カメラを持った男」ジガ・ヴェルトフが合成などの実験的な手法を使いながら、様々な場所で撮影した映像をつづって行くドキュメンタリー。様々な撮影手法を駆使することで、「カメラ」というものの意味を問う。
ゴダールが60年代後半に自らのグループをジガ・ヴェルトフ集団としたということもあって、世界的に有名になったロシア・アバンギャルドの代表的な作品のひとつ。
はっきり言って私にはよくわからなかった。というか、この作品を理解することはなかなか大変な作業であり、そこまでたどり着けなかった。
このような素朴な実験映画には驚くことが出来なくなってしまったのは当然のこととはいえ、それがすなわちこの映画が「よくわからない」ということにつながるわけではない。この時代の作品でもエイゼンシュテインややムルナウの作品は面白く見れるし、その手法に感銘を受けることもしばしばであるからだ。では、なぜ私はこの映画を観てそれほど感銘を受けなかったのか。
ひとつにはこの作品があまりに有名で、見る前から様々なスチルやら何やらで、ここで使われている手法について予備知識を得てしまっていたということがある。この映画は表面的には写真で言えばスナップショットとでもいうべき街角や工場の日常の風景を映したフィルムに、それを撮影する「カメラを持った男」の映像をかぶせたというだけのものである。だから、ボーっと見ていると、なんだかよくわからない。群衆の中に巨大な「カメラを持った男」がいるという映像に魔術的な驚きを覚える素朴な観衆なら話は別だが、今となってはそんなことで驚くということは望むべくもない。
もうひとつは、こちらのほうが重要なのだと思うが、私が物語性にひどく固執するせいだ。この映画は「カメラを持った男」自体がテーマになっているだけあって、カメラの持つ様々な可能性を示唆し、カメラが何かを撮るということを様々な角度から捕えようとしている。それはそれで、そのような問題意識もをって観る人には面白いのだろうけれど、同時にカメラの視線が一定しないということが起こり、一貫した物語がそこから生まれてこないということにもなる。観客が映画を観ているその目とは、つまりカメラの目であり、カメラの目が捉えた物語に一貫性があれば、観客はその物語をすんなり受け入れることが出来るわけだが、この映画のように「撮ること」自体を問題化して、それを映画に内包し、自己言及的になると、その目は映画を観ているわれわれ自身を見返すことになって、観客たるわれわれは単純な物語の悦びに浸ることが出来なくなってしまう。そして、それによって映画は断片へと解体されてしまうのだ。
もちろん、この映画はそのように断片化された物語をひとつの作品としてつなぐものとして「カメラ」というものを提示し、それを観客が主体的に一貫した物語として構造化することを求めているということになるのだと思うが、それをやるのはなかなか大変な作業だ。普段見ている映画が娯楽小説だとしたら、この映画はちょっとした哲学書というくらいの違いがある。しかも、この映画はサイレント、無音の画面を集中して一時間見ることが出来る体調で実にいかないと、この映画の凄さや面白さを実感することは出来ないのだと感じた。
つまり、私には「撮ること」に対する批判的な物言いが捉えられなかったということです。言い訳です。