砂の器
2005/3/4
1974年,日本,143分
- 監督
- 野村芳太郎
- 原作
- 松本清張
- 脚本
- 橋本忍
- 山田洋次
- 撮影
- 川又昴
- 音楽
- 芥川也寸志
- 出演
- 丹波哲郎
- 森田健作
- 加藤剛
- 島田陽子
- 山口果林
- 笠智衆
- 佐分利信
蒲田の操車場で殺人事件が起きる。しかし、被害者の身元は不明、容疑者の手がかりはまったくなし。そんな中、警視庁のベテラン刑事今西と、西蒲田所の若い刑事吉村は、被害者が発したとされる東北弁の「カメダ」というかすかな手がかりをたどって東北の羽後亀田に赴く。しかし、手がかりは見つからず、事件は継続捜査に。そんな中、意外なところから大きな手がかりが見つかる…
松本清張の同名小説を清張作品で定評のある野村芳太郎が監督して映画化。よく練られたプロットと深い人間ドラマ、2時間半という長さを感じさせないダイナミックなドラマ。
さすがに松本清張&野村芳太郎だけあって、映画はサスペンス然として始まる。丹波哲郎と森田健作という対照的な2人の刑事、字幕を交えて説明される事件の概要、一向に手がかりがつかめず難航する捜査。そのすべてがこの後の謎解きの盛り上がりを予告する舞台装置である。謎解きの面白さは手がかりが少なく、そのつながりが薄いほど面白さをます。松本清張の作品を語るのにそんなことを言う必要もないのだが、この作品はまさにそのようにして細い糸のような手がかりに観客を集中させ、謎解きに引き込んでいくのである。
そして、断片的に明らかにされていく小さな手がかりの数々、被害者の身元(予測とは大きくかけ離れた岡山という土地)、新聞記事からひらめいたひとりの女という手がかり、それらがパズルのように組み合わさって、事件の全貌が明らかになっていく過程はまさしく快楽の体験である。
しかし、謎解きを映画にするのは難しい。なぜならば、謎解きは謎を解くタイミングが人によって変わってしまうからだ。本ならば、読む人がそのペースを自分で調整することが出来るが、映画の場合そのペースは所与のものであり、その配分は製作者側にゆだねられているのだ。だから、誰しもが納得する落としどころ、すべての謎が明らかになるタイミングの設定が非常に難しい。簡単すぎれば製作者の狙いより速くわかってしまう人が出てくるし、難しすぎるとわけがわからないまま進んでしまうという印象を与えかねない。
この映画でも、私は簡単すぎるというか、最初のうちにヒントを見せすぎて、肝心のところに行く前に大体予測がついてしまうという印象があった。特に犯人はかなり早い段階でわかってしまう。そこから先は細部(パズルの小さなパーツ)を埋めることに終始してしまうという印象があった。
しかし、その印象は映画が終盤に差し掛かったところで覆される。この映画は終盤に差し掛かったところでサスペンスから人間ドラマへと展開していく。犯人探しのサスペンスドラマではなく、犯人とその周辺の人々をめぐる人間ドラマになっていくのだ。この展開力が非常にすばらしい。サスペンスだけでは観客が飽きてしまうところを、もうひとつ別のクライマックスを持ってくることで引き込みなおすのである。
現代から語り起こすと、この鉄道について詳述されるところ、刑事の移動に隔世の感を感じる。秋田も今では東京から電車で4時間半、飛行機を使えば2・3時間でついてしまう距離である。それを半日かけて移動した時代。その時代には都市と地方で工業化の度合いが違い、はなはだしい情報格差が有り、人間もはなはだしく違っていただろうということは容易に想像することが出来る。
しかし、それを現代で捉えてみるとどうだろうか。移動手段の加速によって日本は狭くなり、ネットワークの整備によって情報格差も減少した。核家族化は地方でも進み、いわゆる田舎では著しい過疎化が進む。それはこの映画で言われている人間性の抑圧という時代が地方へも拡大して行っていることを意味しないだろうか。
このドラマは現代では成立しえなくなってしまった。それは日本という社会が変化したからである。しかも悪いほうに。映画の最後に強くメッセージといて提示されるハンセン病に対する差別は最近ようやく問題化され、差別は減りつつある。しかし、その一点をもってして差別自体が減っていることを意味しはしないだろう。
社会はよりいっそうとしかし、われわれの人間性はよりいっそう抑圧されている。この映画を今観ることによってそれが問題として意識化される。それがこの映画の人間ドラマとしての深みであると思う。