噂の女
2005/3/9
1954年,日本,84分
- 監督
- 溝口健二
- 脚本
- 依田義賢
- 成沢昌茂
- 撮影
- 宮川一夫
- 音楽
- 黛敏郎
- 出演
- 田中絹代
- 久我美子
- 大谷友右衛門
- 進藤英太郎
- 浪花千栄子
- 阿井三千子
- 見明凡太郎
京都のお茶屋“井筒屋”の女将初子が娘の雪子を連れて帰って来る。雪子は東京でピアノの勉強をしていたが、失恋して自殺を図り、心に傷を負って連れ戻されてきたのだ。その雪子は母親の商売を嫌い、芸妓たちも避ける。初子は出入りの医者の的場に熱を上げ、開業させてあげると約束していた…
京都の廓を舞台に母と娘の関係を描いた人間ドラマ。名手宮川一夫の映像も美しく、非常にまとまりのある作品という印象。
溝口の映画を見ていつも思うのは、そのモチーフが「聞いたような話」であるということだ。といっても、平凡な話、凡庸な映画というわけではなく、ひとつの物語の祖形というか、繰り返し語られているような話が物語になっているということだ。
この映画でいえば、中年に差し掛かった廓の女将が若い医者に熱を上げるという「老いらくの恋」の物語である。もちろん、そのような恋の行方は若い男がお金だけをもらってとんずらと相場が決まっているわけで、この映画もそのように展開して行くのだろうと予想しながら見て行くわけだが、それでも溝口の映画はいつも面白い。
つまり、溝口の映画の面白さとは語り口にあるということだ。結末が半分くらいは予想できるような物語に観客を引き込む語り口、そこに溝口の偉大さがあるのではないか。そして、その「聞いたような話」というのは基本的には日本の伝統的な話というべきものから撮られている。この映画でも映画の中盤で「老いらくの恋」を題材とした狂言が演じられるというシーンが挟まれるわけだが、それはこの物語がある種の“古典”であることをあらわしているのだ。
この映画はオリジナル脚本だが、溝口が古典や時代物の原作を映画化することが多いのもそのような古典への言及を示唆しているのだろう。
そのような、ある意味ではわかりきった話であるのに、面白いというのには、まず登場人物の描き方の機微がある。この映画の主人公初子は女だてらにお茶屋の女将、大きな家をひとりで切り盛りしているわけだから、高圧的だったり、いやみだったりという性格に描きがちだと思うが、この初子というのが非常に人当たりがよく、しかし重要なところではピシッというそのような女性に描かれている。その初子と(雪子も含めた)周りの人々との間に存在するのは敵対関係や友好関係という単純な二者関係ではない微妙な関係なのだ。その機微を言葉で説明することなく表現する表現力こそがこの映画の眼目だ。田中絹代の表情、周りの人々のちょっとした台詞、フレームで切り取られた構図という形で示唆される人と人との関係性、そのようなものが重ねられて、観客の中で徐々に人物像が組み立てられていくのだ。
さらに絶妙に挟まれる様々な挿話、胃痙攣で倒れ、癌だと判明して亡くなってしまう芸妓とその妹のエピソードなど物語の中に占める割合は小さいにもかかわらず、主人公となる人たちの人物像や関係に影響を与えるようなエピソードがそっと挿入されるのだ。
寸分の隙もなく組み立てられた物語だが、決して大げさな感じはしない。それぞれのシーンやエピソードがスムーズにつながって、物語は流れるように進んで行く。かなり限られた時代性や場所性を持った物語であるにもかかわらず、すんなりと受け取ることが出来るのは、やはりそれが「聞いたような話」を基にしているからだろう。
まったく知らない世界であるにもかかわらず、どこか懐かしさすら感じる、そのような物語を構築する力こそが溝口健二の巨匠たるゆえんなのだろう。そのような物語の普遍性がゆえにヨーロッパでも受け入れられたのではないか。