歌麿をめぐる五人の女
2005/3/18
1946年,日本,74分
- 監督
- 溝口健二
- 原作
- 邦枝完二
- 脚本
- 依田義賢
- 撮影
- 三木滋人
- 音楽
- 大沢寿人
- 望月太明吉
- 出演
- 坂東蓑助
- 田中絹代
- 坂東好太郎
- 川崎弘子
- 大原英子
- 飯塚敏子
- 草島競子
江戸で評判の浮世絵師喜多川歌麿、それを快く思わない大名のお抱え絵師の狩野派の門弟小出勢之助は歌麿の絵に文句をつけようと殴り込む。二人は結局絵で勝負ということになり、勢之助は歌麿の技量に敬服、さらに一人の花魁の肌に刺青の下絵を描くのを見て、武士の身分を捨て、町絵師になることを決意する…
邦枝完二の娯楽時代小説を溝口が映画化。基本的に史実とは関係なく、喜多川歌麿を中心に描かれたメロドラマ。
題名は『歌麿をめぐる五人の女』となっているが、歌麿をめぐる女たちの物語というよりは、歌麿の周りに居る女たちの物語である。その中でも主人公的な立場になるのは田中絹代演じるおきたで、“若旦那”と勢之助という女たちの争いの対象となる二人の男とかかわってくる。
全体的には散漫な印象なのだが、徐々に歌麿という人物の人間性の魅力が発揮されてきて、若旦那をめぐるおきたとおまんの争いなどもドラマティックになっていき、スーッと映画に入っていくことができる。
溝口の映画の特徴というのは観客がさまざまな登場人物の視線をさまよい、そのそれぞれの登場人物の感情を体験し、複数の人格を体験しながらぐんぐんと映画に引き込まれて行くというものではないかと思う。この作品でも歌麿を中心として、おきたや雪江という登場人物の視線に観客は誘われていく。そして、その登場人物のそれぞれの行動を自分自身のものとして体験することで映画が実感あるものとなっていくのだ。
これは、誰か一人に没入するという、きわめてエンターテイメント性の強い映画とも、いわば映画の外部から全体を見渡す映画とも異なる映画の体験である。ハリウッド映画によく見られるのは観客が主人公に同一化してその映画で描かれる冒険を体験していくというものである。
この映画で言えば、冒頭の部分では観客は漠然とした立場で映画を眺める。しかし、徐々に歌麿に惹かれていく勢之助にぐっと引き寄せられる。それを端的にあらわすのは、絵で対決をする場面、勢之助が描いた絵に歌麿が筆を入れるというシーン、カメラは勢之助と歌麿の表情を捉えるだけでなかなか絵を映さない。絵が映されるのは、対決が終わり、勢之助がかぶとを脱ぎ、歌麿たちが去ったあと、まさに勢之助の気持ちを表すかのように、勢之助が目を落とした瞬間に絵が映る。この絵に実際に感心するかどうかはどうでもいい。重要なのはそのカット割りによって観客が勢之助の気持ちに自分の気持ちを寄り添わせるということだ。
そして、そのあとはひとり家を出て、勢之助のあとを追う雪江に観客はひきつけられる。と同時に、おきたに反感を覚えるのだが、そのような立場も長続きはせず、おきたの悲恋が映画の中心になってくると、今度はおきたの立場に吸い寄せられていくのだ。
つまり、この映画では観客は対立する立場にある登場人物であっても、そのどちらにも自己を投射するという現象が起きる。このような立場の変化が映画のダイナミズムを生み、物語としては小話の集積でしかないように見えるこの映画が非常に魅力的なものになるのだ。
そして、そこにあるのは視線のコントロール、溝口健二はカメラという目の視線のコントロールによって観客の視線と、感覚をコントロールするのだ。