マゴニア
2005/3/19
Magonia
2001年,オランダ,112分
- 監督
- イネケ・スミツ
- 原作
- アルチュール・ジャピン
- 脚本
- アルチュール・ジャピン
- 撮影
- ピヨッター・クックラ
- 音楽
- ジオ・ツィンツァーゼ
- 出演
- ウィレム・フォーフト
- ディルク・ローフトホーフト
- ラムゼイ・ナスル
- ナト・ムルバニゼ
- リンダ・ファン・ダイク
- アダマ・クヤテ
- アンチュ・ドゥ・ブック
- フィリップ・ファン・デン・ブーガールト
- ヒールト・フーナーツ
日曜ごとに父親が住む施設のある島を訪れる少年、少年は毎週父親に空に浮かぶ帆船マゴニアから連想される物語を聞く。一つ目の物語は祈りの時間を告げる歌を歌う老人の物語、2つ目は砂漠にぽつんと立つ小さな家にやってきた旅行者の物語、3つ目は港町で恋人の帰りを待ち続ける女の物語。
グルジアとフランスを舞台にした3つの物語が紡ぐ不思議な物語空間。短編映画で定評のあるオランダのイネケ・スミツ監督による初の長編作品。
この静謐に見える物語の底には、激しい感情が渦巻いているように見える。この3つの物語に共通するのは、旅立つ若者、捨てられる父親、そして父殺しである。もちろん、文字通りの父殺しが行われるわけではないが、象徴的に<父>の立場にあるものと、若者との関係をテーマにしているように見える。
1話目はシンプルだ。基本的な構造は若者が師匠=父親の位置を奪うというものだ。息子は父親を超えること、その地位を奪うことによって父親に成り代わろうとする。しかし、それが実現されると、母親を失い、放逐されてしまう。ここでその母親の立場を担うのは恋人であるイルクヌールである。この若者は師匠の位置を奪うことによって恋人を失い、父親を打ち捨てて去る。父親が占めていた場所が空白になったとき、若者は新たなシニフィエを求めて旅に出るしかないのだ。
2話目もほとんど同じ構造であるが、2話目の若者は外からの力によって父親を打ち捨てることになる。一話目と同じく旅立つことで、父親を打ち捨てることになるが、残してきたところにあるのは不完全な空白である。そこは空白の場所ではなく、自分自身の一部分を残してきたような気になるだろう。
2話目の家にある写真が1話目のイルクヌール(ともうひとり)であるのはどういうことか。旅人が立ち寄る家だということなのか。1話目の若者がこの家に立ち寄り、イルクヌールの写真をいて行った(つまり母親をも打ち捨てた)。そう考えるのが自然かもしれない。
3話目では殺すべき父親は最初から存在しない。若者はそもそも旅人なのである。彼の父親はすでに打ち捨てられたのだろうか。最後、息子は旅立つわけではないが、父親のいた場所には空白が残る。そこにあるのは希望、父は死に、若者は旅立つ。それは同じである。ヨセは待ち続ける。ヨセが待っている“ラムジー”は何を意味するのか。決して実現することのない希望、女は旅立てないというのだろうか?
空白を残して旅立つ若者は、失われたことによって存在するようになったものを探し続ける旅人である。それはシニフィアンであり、シニフィエは存在しない。女はシニフィアン足り得ない。女はシニフィアンがシニフィエを意味する残余でしかないのである。つまり、男は自分を意味づけていた<父親>を殺すことで、否応なく、自分を意味づける別の何かを探す旅に出る。しかし、それは見つからず(存在しないのだから見つかるはずはない)、意味されえないものたる母親に出会い続けるだけだ。
自分で書いていてなんだかわからなくなってきたが、この映画から漂う激しさは、そのような深い部分での葛藤が描かれていることから繰るのではないかと思うのだ。ここで言う男と女というのは象徴的な意味、父親-母親という役割分担(もちろんこと父親母親というのも肉親という意味での親ではなく、象徴的な意味での絶対他者たる父親と超越的自我たる母親ということだと思うが)を化体したものであるわけで、旅とは人生そのものであるということだ。