マリヤのお雪
2005/3/29
1935年,日本,82分
- 監督
- 溝口健二
- 原作
- 川口松太郎
- 脚色
- 高島達之助
- 撮影
- 三木稔
- 音楽
- 高木孝一
- 出演
- 山田五十鈴
- 原駒子
- 夏川大二郎
- 中野英治
- 梅村蓉子
- 歌川絹枝
西南戦争の嵐が吹き荒れる人吉、田舎芸者のお雪は芸者仲間のおきんに引っ張られるように戦場から避難する。また、金持ち連中も非難しようと考えるが、輸送手段は攻めてきた官軍にほとんど抑えられ、お雪とその金持ち連中が同じボロ馬車に乗り合わせることになり、お雪たちは白い目で見られるが…
川口松太郎がモーパッサンの「脂肪の塊」を翻案した原作を高島達之助の脚色で溝口が映画化した作品。戦争の影とブルジョワへの批判、このあたりが映画全体の雰囲気を重く支配している。
モーパッサンの「脂肪の塊」というのは普仏戦争を舞台にした話で、馬車にブルジョワたちと「脂肪の塊」と仇名される娼婦が同乗するという設定らしく、この『マリヤのお雪』は基本的に原作に忠実に作られていると言っていい。
このプロットが生み出す効果は何を置いてもブルジョワに対する批判である。彼らは相手が娼婦であるというだけでまず蔑む。そして、相手を下に見たままで、しかし自分たちのそのような態度は棚に上げて、彼女たちに慈悲や寛容を要求する。あまりに自己中心的であまりに卑しい、そのような人間像としてブルジョワが描かれているのだ。確かにブルジョワというのは新しい時代の担い手でありながら、旧弊を引きずり、特に階級意識を強く持っている。それは差別意識となり、新たな支配関係を生んで、封建社会を再生産することになる。この映画に登場する(あるいは「脂肪の塊」に登場する)ブルジョワはそのような存在としてのブルジョワを極端にしたものだ。その批判というか揶揄は非常に効果的であると思う。しかし、この物語を日本に置き換えたとき、それはあまり魅力的ではない。なぜならば、日本にはブルジョワというものが存在しないからだ。ブルジョワがいないからブルジョワの批判のしようがない。この映画に登場する金持ち連中は素性がほとんど明らかにならないが、おそらく成金か昔からの金持ちということろだろう。彼らは(この映画の舞台となった時代においても、この映画が作られた時代においても)社会の主流ではないから、その批判はあまり面白くなく、世間の人々の共感を得ることも難しいだろう。
だから、溝口はこの映画の後半に二人の芸者と官軍の将校の関係という物語を展開させる。前半で金持ちたちに蔑まれ、しかし彼らに対して寛容であったお雪とおきん、この二人が官軍の将校朝倉晋吾に出会うのだ。あれよあれよという間にお雪は恋に落ち、しかし朝倉は戦地へ向かう。この志は高く、勢いはあるが、今ひとつパッとしない将校は結局お雪とおきんにかくまわれることになる。この展開はいつもの溝口の展開、女が自分のみを犠牲にして駄目な男の立身出世を助けるという展開である。
この映画の題名でお雪の名にわざわざ「マリヤの」とついているのは、お雪の聖母的な性質を表すものだろう。自分を蔑んだ金持ちたちにも寛容で、さらに自分をなげうって男に尽くす。この貧しいけれど心は気高いというキャラクターに溝口は聖母的なものを見出し、これを理想的な女性像として映画に埋め込む。それは溝口の映画史においてほぼ一貫して行われていることである。そして、それが確立されたのはこの『マリヤのお雪』も含めた山田五十鈴を主役に迎えた第一映画での作品なのである。
この映画の一番の面白みはそこにある。それはつまり、この映画のお雪というキャラクターが溝口にとっての理想の女性像の純粋な形であるということだ。物語は今見ると少々退屈な感じもするが、そのキャラクターということに注目してみれば、非常に面白く見ることが出来るのだ。