女優須磨子の恋
2005/4/8
1947年,日本,96分
- 監督
- 溝口健二
- 原作
- 長田秀雄
- 脚本
- 依田義賢
- 撮影
- 三木滋人
- 音楽
- 大沢寿人
- 出演
- 田中絹代
- 山村聡
- 東野英治郎
- 小沢栄太郎
- 千田是也
- 毛利菊江
- 東山千栄子
- 永井智雄
- 木村功
島村抱月は坪内逍遥の弟子で、早稲田大学の学生たちの支持を集めており、逍遥の主催する演劇研究所でも、試演場完成を記念する演目を抱月の演出による「人形の家」に決めた。抱月はその中のノラの役を演じられる女優がいないと悩んでいたが、所員のひとり松井須磨子がノラそのものだということにはたと気づき、彼女の起用を決める…
明治から大正にかけて活躍した実在の新劇スター松井須磨子を描いた長田秀雄の原作の映画化。女性解放という視点はこの頃の溝口らしさでもある。
この映画や『女性の勝利』など、戦後すぐに溝口が作った映画には「女性解放」という思想が盛り込まれているものが多い。それはもちろん戦後日本の民主主義における最重要課題のひとつであったからであり、溝口という監督はそのような時代の流れに非常に敏感だからである。しかし、お茶屋通いを欠かさないような溝口が真の意味での戦後の民主化、女性解放などということに本当に理解があったとは思えない。だから、作品も女性解放というよりは女性が勝気でただただ自分の権利を主張するだけという感じになっているものが多い。
その中ではこの作品は比較的救いがあるほうだろう。この物語の主役である松井須磨子は確かに我が強く、男にも食って掛かり、女性解放という思想のシンボルにはもってこいである。しかし、彼女が戦ったのは女性が男性に比べて蔑まれているからではなく、ただただ芸術のためなのである。
もちろん、その背景には明治以前の演劇といえば歌舞伎であり、歌舞伎とはつまり女性を排除した演劇の形であるから、そもそも日本の演劇界では女性というモノは完全に疎外されてきたわけだ。したがって、新劇運動というものと女性解放とが関連してきてしまうのは避けようがない。男性に独占されていた演劇を女性に解放するとなれば、それはある種の女性解放以外の何者ではないし、同時に歌舞伎という旧来の形式とは違った新しい形式の演劇(つまり新劇)を必然的に生み出すというわけだ。
このようにこの映画が女性解放というものが前面に出ていながら、それが芸術の確信と必然的に結びつくことによって滑らかな印象になる。どうも溝口の女性解放映画というのは片意地が張っていていやな感じだが、この作品は芸術というまさに溝口が追求する分野のことであるだけに語り口が非常に自然で、面白いのだ。
この作品で溝口は、一人一人の視点からそこで起こっていることを見せるというやり方ではなく、複数の登場人物を同時にカメラで捉え、そこにそれらの人物の関係性を映し出すということを試みている。一人の人間の目から見た別の人の考えということではなく、会話という形式から見えてくるそれぞれの考えをそのまま観客に提示する。そのあり方は溝口の作品としては非常に独特であるように思える。
それはそれで面白いのだが、どうしてもそれぞれの登場人物の心理に肉薄するという感覚はあまりなく、なんとなく舞台を見ているような印象になる。それはこの映画自体が舞台を映すシーンを数多く含んでいるという単純な理由もあるのだろうが、画面の作り方も含めて映画全体が舞台を映しているかのようなイメージなのだ。
その中でやはりすばらしいのは田中絹代だ。実在の偉大な女優を演じるという困難に挑戦し、それを見事にやりこなす。特に凄いと思ったのは、映画の終盤の舞台の上での演技である。ここで松井須磨子は演技とは思えないような演技をする。それは舞台での演技と実生活での心情の吐露とが重なり合って、それが演技なのか演技ではないのかわからないような状態ということだが、田中絹代は、その松井須磨子の演技とは思えない演技を演じているわけだ。つまり、演技とは思えない演技を演じている女優を演じているという3重の意味での演技をしているのだ。この演技が非常に見事で、これだけでこの映画に圧倒的な力を与えるのだ。