祇園の姉妹
2005/4/15
1936年,日本,95分
- 監督
- 溝口健二
- 原作
- 溝口健二
- 脚本
- 依田義賢
- 撮影
- 三木稔
- 出演
- 山田五十鈴
- 梅村蓉子
- 志賀廼家弁慶
- 大倉文男
- 新藤英太郎
祇園で芸妓をしている梅吉とおもちゃの姉妹、梅吉のなじみの古沢のやっている木綿問屋が立ち行かなくなり、古川の家族は家財道具を売って妻の田舎に帰ることに。しかし古沢は梅吉のところに転がり込んで居候を始める。おもちゃは厄介もんを抱え込んだと考えるが梅吉は義理だ人情だと言って古沢の肩を持つ…
『マリアのお雪』『浪華悲歌』など名作を生み出した溝口の第一映画時代の名作のひとつ。山田五十鈴と梅村蓉子という名女優の共演も楽しく、山田五十鈴の(当時の)現代的な魅力がはじけている。
芸妓が主役の廓話といったら、惚れた腫れたの浮いた話か、人買いに売られた悲惨な話というのが定番である。
前者の例には事欠かない。花魁(おいらん)というのは化かすのに狐のように尾がいらないというところからきたというくらいだから、花の世界は化かし化かされの化かし合いである。だから、物語も必然的にそんな話になって行き、芸妓は芸妓で、客は客で銘々勝手なことを言うもんだ。そんな話がふんだんにあるのは落語であり、落語の廓話をもとにした映画なんてのも結構ある。後者の方は、かなり悲惨でシリアスな話になる。女の悲惨な運命と、男の勝手さ、男にだまされ続ける女、という構図がそこにはある。
しかし、この映画はそんな話ではない。映画の冒頭はひとつの店がつぶれようとしていて、その家財道具がせりにかけられているという場面から始まる。のちに、その主人と言うのが主人公の姉である梅吉のなじみの客とわかるわけだが、この始まり方は廓話を想像させる題名から考えるとかなり異質な始まり方である。 しかし、この映画はこのシーンによって映画全体のありようを宣言しているのだ。それは徹底的にリアルであるということ。先ほどあげたような廓話の典型例というのはあまりに非現実的なのである。確かに現実にも存在したのだろうけれど、それはあくまでも極端な例であって、日常的に起こることではないはずである。実際は、芸妓といったって普通に生活をしているに違いないのだ。
そのあたりを溝口健二はしっかりと描く。芸妓は男に夢を与えるにしても、夢の世界に生きているわけではなく、金や将来なんて現実的な悩みを抱えながら生きているわけだ。この映画はそのような現実に関わる映画であるのだということを、店がつぶれるというあまりに現実的な出来事によって宣言する。
そしてさらに、当時衝撃を与えたという山田五十鈴のスリップ姿での登場シーンによってそれを補強する。そのスリップ姿というのは、あまりに現実的な姿なのである。スクリーンの上に登場する女優の姿ではなく、家で家族がしている姿なのだ。そして山田五十鈴は平然とその姿で登場し、当たり前に振舞う。「そう、これが当たり前の世界なのよ」とでも語り掛けるかのように、そのことをまったく気に留めないのだ。
ほんの五分で溝口健二はわれわれをこの映画のリアルな世界に引き込んでしまう。
そしてそのリアルな世界というのはつまり、義理人情の祇園の世界に入り込んだモダン・ガールの世界である。映画の序盤で山田五十鈴演じるおもちゃが女学校出身であることが明らかにされ、それは彼女が典型的な芸妓である姉とは根本的に違っていることを示している。芸妓は手練手管を使って男をだまくらかすわけだが、それでもそこは恩や義理の世界であり、祇園という限定された“世間”においては、義理を欠いた行動は非難の対象になるわけだ。
おもちゃは、そんな義理で厄介者の古沢を家においてしまう姉が気に入らない。ドライな彼女は男なんて利用して何ぼだと思っているわけだ。つまり、そこに「時代」というものが現れてくる。旧体然とした姉と、ドライでモダンな妹、その世代間のギャップがこの映画の駆動力であるということになる。
そして、そのふたりと男たちの関係が映画のおもしろみであるということになる。手練手管を使って男を利用しようという妹は姉にもいい旦那がつくように権謀術策を働かせる。しかし姉は実は素朴に古沢のことが好きなのだ。
となると「正直さが一番」のような教訓話になりそうだが、そうはならないのが溝口である。男を利用して利用する妹が悪で、一途な姉が善とは決してならない。途中でそのような展開になりそうになるのだが、おもちゃも流石に大きいことをいっているだけあってそう簡単にはまりはしない。自分の力で状況を打開して、男たちと戦っていくのだ。
というところで、この映画のテーマとは何かがいったいなんだかわからなくなるのだが、やはりここで立ち返ってこの話は廓話だということになるのではないかと思う。つまり、おもちゃが男をだますのは芸妓としては当たり前で、それを祇園の外で解決しようという男たちのほうに非があるのだと言いたげだということだ。「花街で遊ぶなら、だまされてナンボという遊び心がなきゃいけねぇ」という江戸っ子らしい発想なのかもしれない。
それはつまり、この映画が徹底的にリアリズムに徹しているということを意味している。作り物めいた物語を作らず、教条主義的な結論も持ってこず、祇園という場所でそのときに暮らす人々の本当にリアルな日常、それを見事に描いているのだと思う。だから、映画全体を見渡すと盛り上がりどころがなく、アンチ・クライマックスのように感じられるのに、非常に面白くも感じられるのだ。こういう映画は見れば見るほど味が出るというか、何度見ても飽きることがない。