AKIRA
2005/4/22
1988年,日本,124分
- 監督
- 大友克洋
- 原作
- 大友克洋
- 脚本
- 大友克洋
- 橋本以蔵
- 撮影
- 三澤勝治
- 作画
- なかむらたかし
- 音楽
- 芸能山城組
- 出演
- 岩田光央
- 佐々木望
- 小山茉美
- 石田太郎
- 鈴木瑞穂
1988年、第3次世界大戦が勃発し、東京は荒廃してしまう。その31年後、東京湾に浮かぶネオ東京で金田と仲間たちの暴走族はデモが行われている街を疾走する。そのデモに紛れ込んでいた反政府ゲリラのひとりであるケイは奇妙な小男を連れた男がアーミーに惨殺されるのを目撃する。そして、金田の仲間の一人の鉄雄は、突然現れたその奇妙な小男にぶつかりそうになり転倒してしまう…
荒廃した近未来都市を舞台に、大友克洋が独特の世界観を十全に発揮し、海外でも高い評価を得た日本のアニメ史上に燦然と輝く名作。
この作品は今から観ればありえなかった未来を描いていることになるわけだが、それがありえなかった未来であろうと、ありえるかもしれない未来であろうと、この作品が作り上げた世界観の素晴らしさに変わりはない。核戦争後の荒廃した都市というイメージはSF上にあらゆる形で描かれてきたけれど、この作品はその中でもかなり完成度の高い世界像を提示していると思う。
その理由は、この作品で描かれるネオ東京という都市がある種のノスタルジーを感じさせるからかもしれない。戦争で荒廃した都市が復興し、まもなくオリンピックが開かれるという設定は、1960年代のはじめとまったく同じ状況だ。もちろん、この作品で描かれる都市像は現在の東京よりも多くの、そして高層化されたビルが立ち並び、緑も、地面すらも見えない都市である。それはどこまでも未来の風景である。しかし、同時にそこには60年代と同じくデモがあり、権力による抑圧があり、破天荒な若者がいて、都市はカオスに満ちているのだ。
現在の視点からすると、都市とはどんどん整然としていくもののように思えるが、この作品で描かれる未来の都市は現在の都市よりも猥雑である。猥雑さは過去を想起させ、人々をひきつける。金田たちが都市にひきつけられ、都市をバイクで疾走するのも、その都市の猥雑さが魅力的だからだ。猥雑な都市にひきつけられ、彼らは都市とセックスするようにバイクを走らせる。バイクを道路にこすり付け、突き立てる。彼らの欲望は都市に向かい、異性には向かわない。このような荒廃した世界を描いた作品であるにもかかわらず、そこに性的な描写が存在せず、しかも異性がいわゆる救い主になりえないのは、彼らと都市の間にそのような関係が存在しているからだ。
そう考えると、この物語は金田と鉄雄による都市の奪い合いの物語であるとも考えられる。彼らの間では都市の支配者である金田の地位を奪おうと虎視淡々と狙っている鉄雄、彼が金田と張り合えるだけの力を得たとき、2人は直接対決することになる。
この2人の対決はつまり、年老いた子供たちたる人工的なミュータントと人間との対決でもあるわけだが、その人工的なミュータントたちを作ったのもまた人間である。彼らを作った大佐たちは人間と人間の対決のために彼らを作った。彼らを利用して、他の人間たち勝ろうとしたわけだ。
しかし、人間とは異質な存在となってしまった彼らには、人間同士の対決などに意味はなくなってしまう。彼らが考えるのは彼らの内部の秩序と、人間との対決である。彼らは大佐たち人間の庇護の下でしか生きられない。それは映画の序盤に逃亡していた子供=老人に仲間の一人が「僕たちは外では生きられないんだよ」と語りかける場面に現れている。彼らは人間に庇護されながら、しかし人間と対立するものとして存在せざるを得ないのだが、そのあたりは実は曖昧だ。
この作品の最大の問題点はこのミュータントの立場や能力についての叙述が足りないということだ。彼らと大佐たちの関係、彼らに何が出来て、何が出来ないのか、どの部分で大佐たちに依存しているのか、そのあたりが明らかにならないから、終盤の展開に力がなくなってしまう。なぜ彼らは鉄雄に対抗しようとして金田たちに加担するのか、そのあたりは実際のところよくわからない。
もちろん、それだけのことこの2時間の映画に詰め込むのはかなり厄介で、原作を読めばそのあたりもクリアになるのかもしれないが、これが1本の映画として成立している以上、この作品の中で完結させて欲しかったと思わずにはいられない。
世界像や人物やこのミュータント像は圧倒的に面白いのだが、そのあたりの詰めが甘いせいでプロットがいまひとつという感じになってしまっている。映像の勢いや力強さがあるために決して飽きることはないが、心に残る物語とはなりえていない。