緑色の髪の少年
2005/4/25
The Boy with Green Hair
1948年,アメリカ,82分
- 監督
- ジョセフ・ロージー
- 原作
- ベッツィ・ビートン
- 脚本
- ベン・バーズマン
- アルフレッド・ルイス・レヴィット
- 撮影
- ジョージ・バーンズ
- 音楽
- リー・ハーライン
- 出演
- ディーン・ストックウェル
- ロバート・ライアン
- パット・オブライエン
- バーバラ・ヘイル
- ドウェイン・ヒックマン
警察に保護された丸坊主の少年、かたく口を閉じていた少年は警察が呼んだ医師が差し出した飲み物やハンバーガーを食べ、安心したように話を始める。その少年は幼い頃に戦争で両親を亡くし、親戚をたらいまわしにされた末、元役者という老人の家に身を寄せるようになったという…
“赤狩り”の渦の中で英国に亡命したことでも有名な『唇からナイフ』のジョセフ・ロージーの反戦色の強い処女長編。「緑色の髪」によって人々の心理をあぶりだしてゆくという心理劇。
この映画の作りは非常にシンプルだ。少年自身が自分の経験してきた出来事を医師に語る。そこで重要になってくる要素は、彼が戦争孤児であるということと“緑色の髪”であるということだ。
この少年が語るというやり方は、この少年が年のわりには記憶がはっきりしすぎているし、その物事の理解の仕方も明晰すぎるという気がするというのは否めない。そして、少年とどういう関係にあるのかわからない“おじいちゃん”という人物の徹底的な人のよさもリアルさという観点から言うとかなり無理がある。もちろんこの映画の眼目はリアリティにあるわけではないので、どうでもいいといえばどうでもいいのだが、この物語が説得力を持つには全体的なリアリティというものも実は重要で、そのあたりのリアリティの希薄さでこの映画は損をしているのではないかと思う。
まあしかし、そのことはそれほど重要ではない。この映画で重要なのはやはりタイトルにもなっている“緑色の髪”である。ある朝突然に髪が緑色になってしまった少年は、人々に奇異の目で見られ、避けられる。どうしてここまで緑色の髪を奇異の目で見なきゃならないのかという気もしないではないが、この“緑色の髪”というものはあくまでも象徴なので、そのことは問題ではない。この“緑色の髪”は異質なものの象徴、それ自体が無害だろうと有害だろうと異質であるというだけで人々の恐怖心をあおるものの象徴なのである。
人々がピーターを恐れるのは、彼らがそれが伝染するものであるからだと映画では説明されている。これは異質なものへの恐怖と、そこから直接的に生まれる差別、そしてそれが排斥へと至る過程を見事にあらわしている。髪が緑色という考えてみればどうでもいいようなことが、自分たちと違うという理由だけで恐怖の対象となり、恐れるがゆえにそれを自分たちと区別し、異化することで自分たちは安全であろうとする。そして、それを排斥することによって恐怖の根を絶とうとするわけだ。
だから彼らは彼の髪を切ろうとする。髪を切るのは、それによってピーターが彼らと同質のもの、彼らの仲間に戻れるからではない。髪を切られたピーターは無力だからだ。髪を切り坊主にするという行為はナチスの強制収容所の例をあげるまでもなく、その相手の尊厳と力を奪う象徴的な行為だ。人々は恐怖の対象を坊主にすることでその相手の力が自分たちよりも弱いことを確認して安心するのだ。
さらに、細かい点を言えば、ピーターが緑色の髪になって学校に行ったとき、先生がピーターを助けるために子供たちの髪の色をリストにするシーンがあり、そこで赤毛の子がひとりだけいた。結果的にその子はピーターのために引き合いに出されたという形になったわけだが、その子はその後でピーターの髪を切ろうとする少年たちの仲間の一人として登場する。ここには差別というもののさらに複雑な構造が込められているような気がする。集団の中で異質なものとされないためにさらに異質なものを積極的に差別する、そのような構造がこの赤毛の少年の存在に込められてはいないだろうか?
この作品は異質なものに対するそのような恐怖と差別と排斥の構造をすっきりと見事に表現している。“赤狩り”の渦の中でこの映画を公開することに会社は反対したらしいが、それはこのような映画を作り人々に見せることがまさに、自らが“緑色の少年”であることを世間に喧伝することだからである。ロージーは自らが“緑色の少年”になることで世間にそのことを問うたのだろう。しかし、ロージーは結局“赤狩り”の力に負けて英国に亡命してしまうことになる。
そんなロージーはピーターを理解し、守ろうとする人々にロマンティックな望みを込めている。現実にも彼らのような人々が数多くいることに希望を託しているのだ。しかし、その希望はロマンティック過ぎた。彼らのような人は数少なく、差別は今もなくならない。
わたしたちは、人にロマンティックな希望を託すよりも、まず自分が“赤毛の少年”になっていないかどうかを考え、考え続けなくてはならない。