グッバイ・レーニン
2005/5/3
Good Bye, Lenin !
2003年,ドイツ,121分
- 監督
- ヴォルフガング・ベッカー
- 脚本
- ヴォルフガング・ベッカー
- ベルント・リヒテンベルグ
- 撮影
- マルティン・ククラ
- 音楽
- ヤン・ティルセン
- 出演
- ダニエル・ブリュール
- カトリーン・ザース
- マリア・シモン
- チュルパン・ハマートヴァ
- フロリアン・ルーカス
東ドイツに住むアレックスは子供のころに父が西に亡命、それ以後、母は社会主義教育に身を捧げていた。しかし民主化の波の中、アレックスは民主化デモに参加、それを目撃した母のクリスティアーネはそのショックで心臓発作を起こし倒れてしまう。危篤状態にあったクリスティアーネが8ヵ月後に目を覚ましたとき、すでにベルリンの壁は崩壊していた…
東西ドイツの統一を題材に、母と子の交流、世代間のギャップを描いたヒューマン・コメディ。ドイツで歴代の興行記録を塗り替える大ヒットを記録した。
東西ドイツ統一による東ドイツの国民の価値観の変化、それは映画の題材としては面白いし、コメディとして成立しやすいギャップが西ドイツと東ドイツには存在したはずだ。そして、この映画もそのギャップをコメディとして利用しているわけだが、その笑いは必ずしも機能しているとは言いがたい。というよりは、誰もが笑えるギャグというわけではない。それは、そのギャップを狙ったギャグが少ないこともあるし、それについての説明が少なすぎるということもある。たとえば、クリスティアーネは東ドイツのピクルスに固執し、アレックスはそれを探し続けるのだが、中身を入れ替えた時に味の違いに気がついたのかとか、そんな細部が描かれていないために、それを見つけたときのアレックスの喜びが実感として伝わってこないのだ。
アレックスの感覚が実感として伝わってこないというのは、これらのコメディの部分に限らない。最初は母親にショックを与えないために東ドイツが続いているふりをするというのはよくわかるし、そのために必死になる姿はコミカルであると同時に愛にあふれていていい。しかし、それを実行すること自体がどんどん無理になっていくと、それを続けることの意味が観客にはわかりにくくなってくる。クリスティアーネはしっかりした女性だから、別に東ドイツがなくなったことを知らされてもそれほど取り乱したりはしないのではないか、それはそれで冷静に受け止めて、新たな人生を歩むことができるのではないかと感じられるのだ。
そんな観客の戸惑いを予想してか、映画の中盤でアレックスはこの東ドイツのふりが「いつの間にか母のためではなく自分のためになっていた」というようなセリフを吐く。しかし、それはいったいどういうことか。アレックスにとっては社会主義国家こそが理想だったのか、社会主義教育に没頭する母親に育てられたために社会主義の価値観が心根に植えつけられてしまったのだろうか。しかし、その割には民主化のデモに参加していたし、民主化された社会にすっと順応してしまっている。
おそらく、彼が体現しているのは旧東ドイツに対する(それはつまり“古い”ドイツに対すると言い換えることもできる)ノスタルジーなのではないだろうか。すべてがすごいスピードで変化していってしまう資本主義社会、その中で時間が止まったかのように変化しなかった社会主義国家東ドイツ、それが変化しなかったということは1年前のニュースを流しても「何も変わりがない」ということからもわかる。その変わらなさとは西ドイツに人々にとっても懐かしさにつながる。変わってしまった西ドイツにはない古きよきドイツの面影がそこにはあり、その古きよきドイツに固執するアレックスは、ドイツ人のノスタルジーの体現者であるというわけだ。だから、この作品はドイツの人々に(おそらく東西関係なく)広く受け入れられた。
しかし、アレックスとはそのような存在であるから、ノスタルジーという視線にどうかできないでこの作品を見ると、今ひとつぴんと来ないということになる。アレックスがノスタルジーの先に見るユートピアのイメージを共有できないから、彼の行動が理解できないのだ。そして、アレックスとクリスティオーネの立場は逆転する。アレックス自身が言うとおり東ドイツを望んでいるのはもはやクリスティオーネではなくアレックスなのだ。そしてさらに言えば、それを望んでいるのはもはやアレックスしかいないのだ。
この映画は終盤に入ると、完全にアレックスの主観から物語が語られるようになる。観客はそこで起きていることをアレックスの解釈でしか見ることができない。それはいわばアレックスの願望、実現し得なかったユートピアの視線である。観客はその視線から隠されているものを知っているから、その終わりはどこかもやもやしたものになる。アレックスが信じているものと、実際に起きたこと、そのギャップを見つめると、この映画は「人は自分の信じたいことを信じるのだ」といっているのだという気もしてくる。