ターミナル
2005/5/11
The Terminal
2004年,アメリカ,129分
- 監督
- スティーヴン・スピルバーグ
- 原案
- アンドリュー・ニコル
- サーシャ・ガヴァシ
- 脚本
- サーシャ・ガヴァシ
- ジェフ・ナサンソン
- 撮影
- ヤヌス・カミンスキー
- 音楽
- ジョン・ウィリアムズ
- 出演
- トム・ハンクス
- キャサリン・ゼタ=ジョーンズ
- スタンリー・トゥッチ
- チー・マクブライド
- ディエゴ・ルナ
NYのJFK空港、クラコウジアからやってきたビクター・ナボルスキーは税関で止められ、入国を拒否される。理由は母国でクーデターが起き、一時的に無国籍状態に陥ってしまったため。英語がほとんどわからないビクターは乗り継ぎロビーに放り出されて途方にくれるが…
スピルバーグがまたもトム・ハンクスを主演に撮ったヒューマン・コメディ。純粋な人と人とのふれあいを描いたというところか?
トム・ハンクスはいまやすっかり実力派俳優のイメージがついてしまったけれど、私の中にはまだ『マネー・ピット』や『ビッグ』のコメディの印象も強く残っている。だから、この映画の始まりで彼がでたらめの外国語(多分だけれど)でまくし立てるシーンなどをみると、うれしくなる。トム・ハンクスはアカデミー賞の常連となり、ぶくぶくと太り、生え際も後退し、白髪混じりになってもまだコメディアンの精神は忘れていないのだと。
だから、この映画を私はトム・ハンクス中心のコメディとしてみた。哲学的な意味とか、感動とかそういったものも込められているのだろうが、それは私にはどうでもよかった。ニコニコ楽しく見れればいい。スピルバーグにしては見ごたえがないとか、手を抜きすぎだという印象など気にせず、ライトなコメディとして面白ければいいのだと考えて見た。
そう考えてみると、そう悪くない作品だと思う。トム・ハンクス演じるナボルスキーが映画を覚えるのが早すぎるなどという突っ込みどころもあるが、それはコメディだから許すとして、彼が空港の人々に徐々に愛されるようになって行く過程とそれにまつわるコミカルな展開がとてもいい。
キャサリン・ゼタ・ジョーンズが必要だったかどうなのかは微妙なところで、個人的には彼女よりもエンリケやグプタをもっと活躍させてくれたほうが面白かったと思うのだが、それはハリウッド映画、どこかで恋愛が絡んでこないと映画としてのまとまりがつかないのだろう。
そして、トム・ハンクスはさすがに演技派という実力も見せる。特に、序盤のクラコウジアでの政変のニュースを見るシーンの演技は、彼が英語を理解することも話すことも出来ないという設定だけに、セリフを使わずに感情を伝えるという演技のうまさを感じた。
だから、この映画は完全にトム・ハンクスの映画だ。トム・ハンクスの映画過ぎるくらいにトム・ハンクスの映画だ。このトム・ハンクスが好きならこの映画も好きになれるだろうし、このトム・ハンクスが好きに慣れなければこの映画も好きになれない。巨匠スピルバーグは信頼するトム・ハンクスに完全に主役の座を明け渡し、自分は徹底的に黒子に回った。トム・ハンクスを演出し、トム・ハンクスを見せる。ただそれだけを徹底的にやった職人的なスピルバーグというのもなかなか面白い。
そのなかでスピルバーグが力を入れたのは“待つ”というキーワードだろうか。とにかく“待つ”ということ、それがこの映画のひとつの核になっている。ただ待つ、とにかく待つ。それで思い出すものといえばやはりベケットの「ゴドーを待ちながら」やカフカの「掟の門」である。この2つに共通するのは「いったい何を待っているのかわからない」ということであり、そこから「待つ」ということが象徴するものは何かという哲学が生まれる。
この『ターミナル』の主人公ナボルスキーが待っているのは、カフカの「掟の門」と同じく門が開くことである。彼はどうすれば門が開くのかはわかっているが、自分ではそれを開くことが出来ない。したがって彼は「待つ」しかない。しかし、彼には何を待っているかわかっている。だからそこに哲学は生まれない。 ところが、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ演じるアメリアも何かを待っているが、彼女は自分がいったい何を待っているのか本当はわかっていない。だから、実は「待つ」ということに注目すると彼女の方が示唆的なキャラクターであるということになる。彼女は門が開くまで何を待っていたのかわからなかった。門が開いたとき彼女に何がわかったのか。それがこの映画の唯一の哲学的な部分だ。 トム・ハンクスを楽しむと同時に、「待つ」ということについて考える。そうできれば、この映画はなかなか楽しめる。