靴に恋して
2005/5/21
Piedras
2002年,スペイン,135分
- 監督
- ラモン・サラサール
- 脚本
- ラモン・サラサール
- 撮影
- ダビッド・カレテロ
- 音楽
- パスカル・ゲーニュ
- 出演
- アントニオ・サン・フアン
- ナイワ・ニムリ
- アンへラ・モリーナ
- ビッキー・ペニャ
- モニカ・セルベラ
- エンリケ・アルキデス
- ダニエレ・リオッティ
- ルドルフォ・デ・ソーザ
- ロラ・ドゥエニャス
マドリッドに暮らす5人の女性、知的障害者のアニータ、その母で売春宿の支配人をするアデラ、ドラックディーラーの恋人のレイレ、タクシードライバーのマリカルメン、上流階級の生活をするが夫とは離婚寸前のイサベル。それぞれに複雑な事情を抱える女性たちが靴/脚というキーワードで結びつき、人生のそして合いの様々な物語を紡ぎだす。
ラモン・サラサールはこれが長編デビュー作となるが、同じスペインの巨匠アルモドバルを髣髴とさせる作風で、二番煎じの感は否めないが、作品には力がこもっていて、グッと引き込まれる。
映画の始まりは、一気に登場人物が紹介され、登場人物の多さに少し混乱する。しかし、主役となる5人のキャラクターはきちんと整理されていて、わかりやすくなっているので、しばらくすると映画のペースにうまく乗って行くことが出来る。アニータとホアキン、アデラとレオナルド、レイレとクン、マリカルメンと子供たち、イザベラと靴、それらの関係がじわじわと見えてくる。
その一つ一つのエピソードが何かを明確に語っているということはなく、そのドラマに引き込まれるということもあまりない。むしろ、それぞれの言わんとしていることは実際のところよくわからない。彼らの会話で頻繁に脈略から外れたようなセリフがぽんと口をつくのもそのわからなさを助長するわけだが、このように会話に違和感あることで、ただ5つのドラマが流れるように展開して行くよりは、強く印象に残るということも言える。
そして、これらの物語が音や映像で橋を架けられながら頻繁に交代して展開されて行くので、情報量はかなり多い。だから、それらをちゃんと理解するよりも早く物語りは展開して行ってしまい、それぞれの登場人物が何を考えているのかなどということは考える暇がないという感じだ。
しかし、映画が後半に差し掛かると、これらの物語が微妙に関連しあっていく。そして、そのつながり方がもたらすのは、ひたすらの切なさである。これほどまでに切ない映画を今まで見たことがあっただろうかというほどに切ない。登場人物の全員が感じる切なさが画面から突き刺さるように伝わってくるのだ。いったいこのせつなさは何から来るのか。細かく分析していけばそれぞれの切なさの原因を理解することは出来るのだろうが、この映画のスピードではその切なさは、否応のない、説明しがたいものとして観客の胸に迫ってくるだけだ。
このせつなさの表現の仕方というのは非常に映画的という気がする。言葉によって何かを理解するさせようとするのではなく、登場人物の感情そのものを観客にぶつけて、観客を圧倒する。このようにして言葉にならない感情をストレートに表現できるというのは映画的に非常に優れた表現の仕方だと思う。言葉を吐かない間、そして視線のやり方、視線をあわせないということ、それらの小さな表現が組み合わさって表現される感情の機微、それがこの映画に力を与える。
その意味でこの映画の中盤は非常に優れている。物語のモチーフや女性の群像劇という特徴などどこをとってもアルモドバルのコピーと思わせる作家ではあるが、この感情の描き方はアルモドバルにはない特長ということが出来るのではないだろうか。
後半は少しだれるというか、少し説明臭くなってテンポが悪くなるし、観客の感情をグッとつかんだ上でこのような当たり前の終わり方はどうも腑に落ちないという気もする。これだけ切ない話だと確かにハッピーエンドになるか、少なくともハッピーエンドもありうる観客に思わせないと、あまりにつらく、映画を観終わった後の観後感が救いがたいものになってしまうという可能性はある。
だが、やはりこんな甘ったるい終わり方ではなく、どこかで観客を突き放し、観客自身の解釈によって結末をつけさせるというやり方をとったほうが作品にはふさわしかったのではないかと思えてしまう。映画の登場人物たちの心の痛みを自分のもののように感じられたのなら、それを自分の人生に生かせるだろうから。