ダーク・スター
2005/5/24
Dark Star
1974年,アメリカ,83分
- 監督
- ジョン・カーペンター
- 脚本
- ジョン・カーペンター
- ダン・オバノン
- 撮影
- ダグラス・ナップ
- 音楽
- ジョン・カーペンター
- 出演
- ブライアン・ナレル
- ドレ・バヒッチ
- カル・カニホルム
- ダン・オバノン
- ジョー・サウンダース
地球から50光年はなれた宇宙を旅する宇宙艇ダーク・スター、任務は不安定な惑星を爆破してまわること。放射の事故で亡くなった船長に代わって指揮を執るドゥーリトル中尉らは退屈しながらもくもくと職務をこなして行く。
ジョン・カーペンターがダン・オバノンらと学生時代に撮った作品を作り直して、長編化した作品。共同脚本のダン・オバノンはこの作品のアイデアを『エイリアン』に利用した。
この作品が非常に素人くさいというのは致し方ないだろう。何せ、そもそも学生時代に撮った作品、出演者はプロの役者ではなくジョン・カーペンターのUSCの同級生、配給に協力したのもジャック・ハリスという当時はもっぱらヌード映画やハードコアポルノを制作していたプロデューサというわけで、何とか公開できたという作品だったのだ。
しかし、この作品のオリジナリティはさすがにジョン・カーペンターであると思う。まず、宇宙探検といえば未知の物に立ち向かうワクワクする体験であり、その宇宙船の乗組員たちも熱情を持って任務に当たっているのが普通だ。しかし、このダーク・スターの乗組員たちは、ルーティンワークに出してしまった宇宙探検にすっかり退屈し、まったく覇気がない。船長の職務を代行するドゥーリトル中尉などは知的生命体の存在確率が95%といわれても、まったく興味を示さず、ただ惑星を破壊することだけを淡々とやろうとする。
そして、そんな彼らが不安定な惑星(というのも今ひとつ意味がわからないが)を破壊し続ける目的も今ひとつはっきりせず、彼らはただ何かを待ちながら宇宙を旅するだけなのだ。そこではおそらく破壊という行為だけが唯一何か意味を持つ行為のように見える。この作品を公開するときジョン・カーペンターは「宇宙でゴドーを待ちながら」という宣伝文句を考えたそうだが、その文句どおり彼らはただただ何かを待っているようだが、いったい何を待っているのかはわからない。
この漠然とした出口のない感じはまずジョン・カーペンターの「閉じ込められた」感覚の表現の一つであるし、そして未来の夢物語であるにもかかわらずまったく希望に満ちていないというのも、ジョン・カーペンターらしいアンチ・ロマンティシズムである。
つまり、ジョン・カーペンターはこの第一作からすでにジョン・カーペンターなのだ。もちろん作品の質は変わっても、根本的なスタンス、映画に対する欲望は変わっていない。現実的でロマンティックでない閉塞観を伴ったSF、それがジョン・カーペンターの作品の本質であるとこの作品を観ながら思う。
もちろん、彼のオリジナリティはそのような作品のエッセンスだけに発揮されているわけではない。独自の思考回路(のようなもの)を持っているらしい爆弾とマザー・コンピュータとの間の会話のおかしさ(機械同士の会話がこんなにおかしいという例はあまり見たことがない)といい、ビーチボール宇宙人のチープさといい(“キラー・トマト”の先取りか?)、その宇宙人との追いかけっこではまったエレベータのシークエンスのスリル(演技があまりうまくないためにトリックが見え見えで安っぽいが、白で統一された画面構成や遠近感を助長するようなフレーミングは見事だ。ちなみに、ダン・オバノンはこのシーンほぼそのまま『エイリアン』で使って、「自分が考えたんだからいいんだ」というようなことを言っているらしいが、ジョン・カーペンターは「ダンではなくて自分が考えた」といい、「ダンは盗みの名人だ」という)も素晴らしいものだ。
学生時代につくった作品だけに、雑ではあるが、逆に映画会社による制約なしに、自由に作った作品であるためにジョン・カーペンターらしさが非常によく発揮されている、そんな作品であると思う。