家宝
2005/5/31
O Principio da Incerteza
2002年,ポルトガル=フランス,132分
- 監督
- マノエル・デ・オリヴェイラ
- 原作
- マグシティナ・ベッサ=ルイーシュ
- 脚本
- マノエル・デ・オリヴェイラ
- ジャック・バルジ
- アントニオ・コスタ
- ジュリア・ブイセル
- 撮影
- レナート・ベルタ
- 出演
- レオノール・バルダック
- レオノール・シルヴェイラ
- イザベル・ルト
- リカルド・トレパ
- イヴォ・カネラシュ
ポルトガルの良家に仕えるメイドのセルサはその家の若主人アントニオに息子である“青い雄牛”という異名をとるジョゼと同様の愛情を注いでいた。そして、ジョゼが一緒に娼館を経営するヴァネッサをアントニオに紹介したことにセルサは危機感を覚え、旧知のロペール兄弟に相談し、彼らの姪であるカミーラとの結婚の話を進めようとする…
90歳を越えても旺盛に作品を作り続けるポルトガルの巨匠マノエル・デ・オリヴェイラがいつもの淡々とした物語を語る。
マノエル・デ・オリベイラの作品がいつも(私の)眠気を誘うのは、その徹底的に引き伸ばされた間の長さのせいだ。この作品の冒頭(タイトルクレジットの間)に展開されるのは古びた教会のような倉庫のような建物に若い女性が入っていき、そして出てくるという場面を建物の外からひたすら映した映像である。このいったい何がおきているのか、というより何も起こっていない長い長い固定カメラ、ワンショットの映像、この映像が眠気を誘うのだ。そして、物語を展開して行く中心となる人々の会話も感情をむき出しにしたりすることはほとんどなく、淡々としている。そしてさらに、アントニオの家がある場所とロペール家があるポルトの間を誰か(セルサかカミーラだが)が移動するときにはその列車の窓から見える河の風景が延々と映される。
この移動の風景の眠さは『世界の終わりへの旅』を思い出させるが、もちろんこのシーンは観客を眠らせる子守唄として存在しているわけではない。このシーンに特徴的に表れるのはこの映画の反復という要素だ。同じ映像を、あるいは同じ場所、同じ移動を撮った映像を繰り返し見せることによって、言葉によって説明することなく、その場所や移動の意味を理解させるということ、それがこの反復されるシーンの意味である。何度か目には車窓に河の風景が映っただけで誰かがロペール兄弟の住むポルトに向かっているのだということが理解できる。そして、その旅路を映す長いワンショットのシーンの間に、その列車に乗っているその誰かがいったい何を考え、何をするためにロペール兄弟に会いに行くのかということの想像を膨らませることが出来る。
そのように観客が想像するということ、それはこの映画にコミットして行くために絶対に必要なことだ。この映画は非常に淡々としていて、劇的なことがほとんど起こらない作品であるようにみえる。しかし、他方でこの映画はある程度の時間を飛び越え、その飛び越えた時間の間に劇的なことが実は起こっているのである。カミーラとアントニオの結婚が決まるということ、ダニエルの死、などなど物語に重要な影を落とすはずの劇的な出来事はまったくと言っていいほど映像として登場せず、言葉で説明されることもほとんどない。だから、観客は一瞬の間にすっかり変わってしまった状況を観察し、その空白を自分で埋めて行かなければならない。そのようにしてなぜか繰り返されるジャンヌ・ダルクの話などを理解して行くことでようやくこの物語の全体を理解して行くことが出来るのだ。
なので、この映画を見るとすごく疲れる。眠気と戦いながら、理解できない部分を埋めながら、物語を追って行く。ただそれだけで疲れてしまう感じだ。しかし、垂れ流される映像を流し込まれるよりは、このほうが映画を見ているという感じはする。積極的に映画にコミットして行ってそこに込められた何かを読み込もうとする。そのような努力を傾けた観客をこの監督は裏切らない。そのようにグッと集中して映画を見ると、最後にストンと腑に落ちるような結末が用意されているのだ。