百合祭
2005/6/3
2001年,日本,100分
- 監督
- 浜野佐知
- 原作
- 桃谷方子
- 脚本
- 山崎邦紀
- 撮影
- 小山田勝治
- 音楽
- 吉岡しげ美
- 出演
- 吉行和子
- ミッキー・カーチス
- 正司歌江
- 白川和子
- 中原早苗
- 原知佐子
- 目黒幸子
老人ばかりが住む毬子アパートに住む宮野理恵がいつものように隣人のネネさんを訪ねるとネネさんは亡くなっていた。まもなくその空いた部屋に三好さんというダンディな紳士が越してくる。大家さんの奥さんをはじめとしてアパートの住人たちはその三好さんのリップサービスに幻惑され、宮野さんもその例に漏れないのだが…
北海道在住の作家桃谷方子の原作を女性監督としてポルノ映画を300本以上監督してきた浜野佐知が映画化。浜野佐知の一般映画はこれが『尾崎翠を探して 第七官界彷徨』に続いて2本目となる。
ほとんどが70歳を過ぎた老婆ばかりのアパートで展開される愛憎劇という発想は非常に面白いし、歳はとっても性に対する興味関心とエネルギーは枯れていないという発想はポルノ映画を何十年も撮ってきた(しかも女性の)監督ならではの視点だと思う。
そして、吉行和子はそのような老婆(というにはかなり若く見えるが、彼女は実年齢で言うと、撮影時でおそらく65か66というところ。若い!)を見事に演じて色っぽい。ミッキー・カーチスの方は若い頃から遊び続けて今に至るといういかにもな感じはピタリと来るが、みんながみんななびくほどのダンディな男かといわれるとそこは微妙なのではないかと思う。
しかし、この作品で言いたかったのはおそらく、世間では老人は(特に老婆は)性的なことについてはもうすでに枯れていて、興味も持っていないと思われているだろうが、むしろ逆に若者よりも貪欲なのだということなのだろう。それならば、別にミッキー・カーチスが演じた三好さんは女にモテモテというタイプでなくてもかまわないわけで、このキャスティングで問題はないということになる。この三好さんという存在は単純に、それぞれの老婆が世間の見方に従いながら慎ましやかに生きていた、そのたがをはずす役割、老婆たちをレディとして扱うことで、彼女たち自身が恋愛や性に対して主体的に行動していいんだという認識を再び持つきっかけを作るだけなのだ。
世間が老人たちの性的な欲望をなきものとみなそうとするのはそれを見たくないからであり、見苦しいと思ってしまうからである。それはおそらく性が生殖と結びつくという発想から、不必要な性交渉に対する罪悪感と不潔という印象が生まれるせいだろう。しかし、セックスなんてものはもはや生殖とのつながりは希薄なものになってしまっているし、老人なら逆に完全に生殖と切り離して考えることが出来るから、純粋に楽しめるのではないかという気もしてくる。
この映画は観客にそのような発想を持たせ、世間の常識、タブーとされていたものを覆すという機能を果たすという意味では非常に面白い作品だと思う。6人の老婆たちの演技はそのような年老いたものたちの性への渇望を見事に表現しているし、6人いるということで、それが特殊な欲求なのではなく、誰しもが(みんながというわけではないと思うが)持っている欲求なのだということも表現していてとてもよい。
そのように、作品から伝わってくるメッセージは非常によいのだが、物語の展開というものを考えると非常に弱い気がする。そのように老婆たちが性の渇望を表に出していいのだと気づく瞬間が描かれていないし、それまで抑圧されていたものが解き放たれる喜びというものも表現されていない。ただひとり原知佐子が演じた並木さん(般若心経を唱える人)だけが、三好さんに出会ったことで急激に変化した。しかし彼女もその変化に至る心境というモノは表現されていない。
この物語が何かそのように上っ面だけをたどった安っぽい薄っぺらな物語に見えてしまうのは、この映画の嘘っぽさのせいだろう。特に嘘っぽさが発揮されるのはセリフである。この映画はおそらくほとんどがアフレコ(違っていたらすみません)。何故アフレコになってのかはわからないし、別にアフレコだっていい映画はたくさんあるけれど(現在のハリウッド映画はほとんどの映画がほぼ完全にアフレコで製作されている)、この映画の場合はアフレコされたセフにあまりに奥行きがないのだ。
セリフに奥行きがないというのは、観客と劇中で話している人との距離感がとれないということであり、その結果スクリーンは文字通り平面の板になってしまう。スクリーンに映った映像の奥行きはあくまでもまやかしで、それは平面の板に映った像に過ぎないのだという当たり前の事実を観客はずっと突きつけられ続ける。それではまるで映画に入って行くことは出来ない。そのあたりが今ひとつすっきりしないところだろうか。