ゴースト・ハンターズ
2005/6/6
Big Trouble in Little China
1986年,アメリカ,100分
- 監督
- ジョン・カーペンター
- 脚本
- ゲイリー・ゴールドマン
- デヴィッド・Z・ワインスタイン
- 潤色
- W・D・リクター
- 撮影
- ディーン・カンディ
- 音楽
- ジョン・カーペンター
- 出演
- カート・ラッセル
- キム・キャトラル
- デニス・ダン
- ジェームズ・ホン
- ヴィクター・ウォン
- ケイト・バートン
トラック運転手のジャックはいつものようにチャイナタウンに荷物を届け、友人のウォンとギャンブルに興じていた。翌日、中国からやってくるというウォンの恋人ミャオ・インを迎えに行くため一緒に空港に行く。しかし、そこにはチンピラ集団がいてミャオ・インを攫って行ってしまう…
ジョン・カーペンターがチャイナ・タウンを舞台にSFXを駆使して取り上げたファンタジー・アクション・コメディ。ありえない展開とカンフー/キョンシー映画のパロディじみた構成でコメディ色が強い。
この映画の見た目はどう観ても低予算の香港映画である。当時ならばそこそこのSFX技術といえたのかもしれないが、今となっては子供だましもいいところ、まったくリアリティはない。そして、それに拍車をかけるのがカート・ラッセルのダメさ加減だ。まず服がダサい。なんだかよくわからない柄のだぶっとしたタンクトップで日曜日に昼間っからビールを飲んでるおっさんにしか見えない。
と書くと、それがこの映画のダメさ加減を説明しているようだが、実はカート・ラッセルがダメオヤジのように見えるのには理由がある。この作品でカート・ラッセルが演じている役はダメな白人の見本のような役だ。彼は目の前で起こっていることがまったく理解できず、しかしそれに首を突っ込まずにはいられず、わけのわからないままに力に頼ってしゃにむに頑張ってしまう。時にはそれが成功するが、時には失敗して周りに迷惑をかける。
そして、観客はそのようなダメ男のジャックの視線で映画の世界に引き込まれる。だから観客にも起こっていることがよく飲み込めない。ロー・パンってのは結局何者なのか、突然登場する怪物じみた異形の生物は何なのか、それらのことはまったく説明されず、ジャックも観客も理解できないまま映画は進んで行ってしまう。
このような映画の展開の仕方に全知全能であることになれた(白人の)観客は戸惑う。ジャックが(つまり自分が)アジア人の中にあって無力な存在であるということに非常な違和感を覚えるのではないだろうか。そのような仕掛けに絡め取られて、分けのわからないまま映画を観終わった観客は、この映画を面白いとは思わないだろう。ただのちゃちなストーリーもお粗末なB級映画、そんな評価を下すに違いない。
しかし実はこれは、カーペンターにしてみれば今までとまったく変わらない映画なのである。この物語の主人公ジャックは他の作品の主人公と同様に閉じ込められている。もちろん物理的にはチャイナタウンから逃げ出すことは出来る。しか仕分けのわからないものに取り囲まれ、その囲いから抜け出すことは出来ず、閉塞感を感じている。その閉塞感を打ち消すには、それを理解しなければならないのだ。だから彼はそれを理解するまでそこを抜け出すことが出来ないのだ。
それが自戒的な白人批判であるとはいわないが、カーペンターがハリウッド映画のステレオタイプ化されたものの見方から自由であることはわかる。彼は自分の目で物事を見て、それを彼らしいスタイルで映画にする。だから彼の作品にはいつもオリジナリティがあるのだ。
確かにこの作品には失敗といえる部分もある。最初にあげたSFXのちゃちさもそうだし、おかしさを狙ったギャグには面白くないものも多い。しかし、チャイナタウンのふたつのグループが殴り合いをするシーンにはどう考えても本当に殴っているとしか思えないリアリティがあるし(本当に殴っていることも多かったらしい)、ジャックとグレイシーの変なロマンスも面白い。カンフー映画へのオマージュなんだか、パロディなんだかわからない部分も観る人が観れば面白いのだろう。
このカンフーシーンのわからなさの一因はカーペンターの好きなカンフー映画がかなりマイナーな『片腕ドラゴン』シリーズだということもあるかもしれない。この作品はタランティーノも好きで『キル・ビル』に引用されて有名になったけれど、この80年代という時代に、この映画を観ていたアメリカ人がどれくらいいたものか、このようにしてわけのわからないオマージュなんかをしてしまうから、カーペンターはいつまでたってもカルトにジャンル分けされてしまうのだ。
もちろん、私はそんなカーペンターが好きなのだが。