珈琲時光
2005/6/7
2003年,日本,108分
- 監督
- ホウ・シャオシェン
- 脚本
- ホウ・シャオシェン
- チュー・ティエンウェン
- 撮影
- リー・ピンビン
- 出演
- 一青窈
- 浅野忠信
- 萩原聖人
- 余貴美子
- 小林稔侍
陽子は友人のハジメがやっている神田の古本屋に足繁く通い、その近所の喫茶店で調べ物をする。その陽子が仕事で台湾から帰ってまもなく、墓参りのため実家のある高崎に向かう。久しぶりの実家でくつろいだ陽子は長い昼寝を終えた夜、母親に自分が妊娠していることを告げる…
小津安二郎を敬愛してやまない台湾の巨匠ホウ・シャオシェンが小津の生誕100年を記念して、小津にオマージュを捧げた作品。
まずこれが小津生誕100年、小津へのオマージュというラベルによって観られる作品であることはいたし方がない。観客はこの作品を小津の作品と比較し、どこが小津的で、どこで小津を引用しているのかということに注目する。
そのような目で見ると、この映画は決して小津のコピーではないし、小津の引用から成り立っている映画でもないということはすぐわかる。しかし、もちろんまったく小津的ではないというわけでもない。たとえば、陽子が実家に帰ったシーン、実家の居間を捉えるカメラはちゃぶ台に座った小林稔侍の顔の高さと同じローアングル、まさしく“小津の高さ”に据えられている。しかし、カメラはそこにじっと据えられているわけではなく、ゆっくりと角度を換えてそのフレームに入っていなかったものを映し出す。または、シーンの切れ目に挿入される街の風景も、小津作品の静謐な感じとは異なって、どこか現代的なせわしなさを感じさせる。そして、それはおそらく狙ったもので、もっとも多く挿入される風景に御茶ノ水駅の3本の線路が交差している場所が選ばれたのも、そのシーンに都会的なせわしなさがあるからなのだと思う。
だから、この作品に小津的なものを見出そうと思って作品を観続ける観客は、期待はずれに終わって、退屈に感じてしまうはずだ。これは小津ではない、これも小津ではないとつぶやきながら、つかのま表れる小津的なものに目を輝かせるしかないのだから。
そのような意味で、この作品は小津生誕100年記念作品としてはあまり成功しているとは思えない。「小津の復活」を期待して映画を観る観客に冷や水を浴びせかけるのだから。
しかし、そこから多少距離を置いてみれば、この作品はホウ・シャオシェンらしい良質の作品であると思う。なんといっても思うのは、この作品が映画のために用意されたひとつのドラマを物語るものではなく、日常の一部分を切り取ったものであるということだ。
映画のドラマというのは普通は、導入部でそのドラマに入る前の出来事の概要が何らかの形で語られ、徐々に映画の主プロットとなるドラマに入って行くものである。主人公はどのような人で他の人とどのような関係にあるのか、などということがほのめかされたり語られたりすることで明らかにされるのだ。
しかし、この映画ではこの映画が始まる前の時間のことはまったく説明されない。陽子が何をしに台湾に行っていたのか、ハジメちゃんの「財産」とは何か、「北海道の伯父さん」とは誰か、などなど物語の中心になるはずの物事についてまったく説明がなされない。それはまさにずっと続いてきて、これからも続いて行く陽子の人生のほんの数日を切り取って提示しただけなのだ。物語は突然始まり、突然終わる。その唐突さは逆に映画をドラマティックにし、観客をひきつけるのではないか。
もちろんそれは、わからなさ、理解しがたさ、退屈さを生みもする。だから、ここで捉えられた断片に何らかのリアリティを感じ取らなければ今作品に面白みを見出すことは出来ないだろう。そして、この作品に面白みを見出すというのは、この作品が捉えている価値観をどこかで共有しているということだ。小津は確かに巨匠ではあるが常に時代感覚に優れ、その時代時代のリアリティにこだわって作品を作っていた。それが小津の魅力のひとつであり、多くの観客に受けられられた理由だったのだ。
この作品もそのような意味での現代性をもっていなければ小津のオマージュということは出来ない。しかし、これだけ価値観の多様化した現代において、ひとつの価値観がどれだけ多くの人の共感を呼ぶことが出来るのか。人々に圧倒的に支持されるのはリアリティを欠いた夢物語ばかりで、誰しもがリアリティを感じえる描写などというものはもう存在し得ないのではないか。この作品に私はある程度のリアリティを感じたが、それはあくまでこの陽子やハジメのライフスタイルが自分自身のものに近いからであって、ここに描かれているものが現代的であるからではないと思う。
そのような意味でこの作品は観る人を選ぶ。そしてそれは、小津が50年まえにやったことを今やるのは不可能なことだということだ。