イル・ポスティーノ
2005/6/15
Il Postino
1994年,イタリア=フランス,107分
- 監督
- マイケル・ラドフォード
- 原作
- アントニオ・スカルメタ
- 脚本
- アンナ・パヴィニャーノ
- マイケル・ラドフォード
- フリオ・スカルペッリ
- ジャコモ・スカルペッリ
- マッシモ・トロイージ
- 撮影
- フランコ・ディ・ジャコモ
- 音楽
- ルイス・エンリケス・バカロフ
- 出演
- マッシモ・トロイージ
- フィリップ・ノワレ
- マリア・グラツィア・クチノッタ
- リンダ・モレッティ
- アンナ・ボナルート
イタリアの小さな島、そこに住む青年マリオはニュース映画でチリから亡命した愛の詩人パブロ・ネルーダが島にやってくることを知る。その帰り仕事がないマリオは郵便配達人募集の広告を見て郵便局に行く。その仕事とはそのパブロ・ネルーダ専門の郵便配達の仕事だった。
ノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダを主人公とした小説の映画化。マリオを演じたマッシモ・トロイージは撮影時すでに病に冒され、クランクアップ直後に亡くなってしまったという彼の魂も込められた作品。
美しい風景、これなくしてこの映画を語ることは出来ない。わたしは映画をいつも物語中心に見てしまう。それは基本的に映画というものが何かを見せるものである以前に何かを語るものだと思っているからだ。主人公がいて、その主人公が何かをする。その何かによって主人公は何かを成し遂げ、見ている私もそれに参加したような気分になる。それが典型的な映画の物語の体験の仕方である。
しかし、この映画は美しい風景を捉えた映像にまず目が行ってしまう。海の青、空の青、土のベージュ、それらの色彩にまず目を奪われ、そこにひきつけられ、映画に入り込んで行く。この映画をそのように見てしまうのは、ただその映像が美しいからではなく、この映画が詩を題材にしたものだからではないかと思う。映画は基本的には脚本という物語から生まれるわけだが、この映画の脚本にはすでに物語から独立した詩が存在している。詩は時間を薄片のように切り取ったスナップショットである。それは物語よりも映像と親密なものである。
そのような詩の存在感が強いことで、この映画は物語である以前に映像詩だという印象があるのではないかと思う。この映画を見ながらまず印象に残るのは、ネルーダの詩に触発されたマリオの目に映る様々な光景である。それは美しい風景であり、美しい女性であり、ネルーダが奥さんとダンスを踊る姿である。ネルーダはそのようにして彼の頭に映像詩として焼きつき、その姿を残して去って行く。 しかし、それで終わりではない。ネルーダが、つまり詩が去って行ったことで映画の物語は改めて駆動し、新たな詩を紡ぎ始める。詩人ではないマリオが彼なりのやり方で詩を紡いでゆく。それを物語る最後の30分ほどが本当に素晴らしい。
この作品のもうひとつの魅力はここに登場する人々の誰もが無力だということだ。ネルーダは偉大な人だが彼は詩人であり英雄ではない。彼は尊敬されているが、何かを動かす力はないのだ。映画の最後に彼は自分自身の無力を思い知らされる。それはひどく切ない。しかし、ネルーダもマリオも懸命に生きていることは確かだ。彼らは詩を紡ぎ、そこに思いを込める。それはもしかしたら何も変えないかもしれない。しかし、ネルーダの詩がマリオを変えたように、何かを変えるかもしれないのだ。そのような小さな望みに、自分はまったく無力なのではないという微かな希望にすがりながら、懸命に自分に出来ることをするというその姿を描いたこの映画はやはり美しい。