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吶喊

2005/6/17
1975年,日本,93分

監督
岡本喜八
脚本
岡本喜八
撮影
木村大作
音楽
佐藤勝
出演
伊藤敏孝
岡田裕介
高橋悦史
伊佐山ひろ子
千波恵美子
坂本九
天本英世
岸田森
preview
 奥州の百姓のせがれ千太は嫁をもらおうと願をかけ、その通りに道を通りかかった女に襲い掛かる。しかしそこに現れた万次郎という官軍の密偵の青年にその女お糸を奪われてしまう。家に帰った千太はそこで仙台藩の下級藩士細谷十太夫に出会う。戦争を見たことがない千太は止めるのも聞かずに十太夫についていこうとするのだが…
 戊辰戦争に巻き込まれた若のもの姿を生々しく書いた岡本喜八の幕末ものの傑作。タイトルの吶喊はときの声を上げることを意味する。
review

 なんといってもいいのは主役の千太を演じる伊藤敏孝である。「なんかもしろそ~」という言葉とともに駆け出して、普通に考えれば面倒くさいことにどんどん頭を突っ込んで行く、その若者らしい勢いを見事に演じきっている。
 そしてそれは対照的な存在としている万次郎と並置されることによってよりわかりやすく浮き彫りになって行く。このふたりの青年はまったく対照的であるように見える。千太の方はとにかく自分の思ったとおりに突き進み、いいものはいい、悪いものは悪いと決め付ける。もちろんどこか抜けたところがあるためにそのように一本気な性格になっているのだが、それが極端になり破天荒になることで、そこに何か仁義とか正義というものが存在しているかのように見えるようになるのだ。それに対して万次郎はとにかく自分の利益だけを考える。周囲で起こっていることとは関係なく、どうしたら自分がより多く利益を上げることが出来るか、ただそれだけを考えているわけだ。
 そのように対照的なふたりだが、共通する部分もある。それはまずどちらも自分の欲望のみに突き動かされているということだ。世の中の動きとか、人と人との関係のしがらみとかいったことには目もくれず、ただ自分の欲望が赴くままに行動する。それが彼らを子供じみたように見せ、しかし同時に限りないパワーを生んでもいる。そしてもうひとつ、彼らは今起こっている戦乱に何の希望も見出していないという点も共通している。万次郎は言葉としてもその無意味さを表明しているから明らかだが、千太の方は一貫して仙台藩の側についており、官軍に反対しているかに見える。しかし、彼が官軍に反対するのはそれが彼の感情を害するからだ。少年たちを殺し、仲間を殺すひどい奴らだからなのである。
 彼らはまるで戦乱など目に入っていないかのようだ。それは岡本喜八が一貫して描き続ける戦争の無意味さに通じる。彼らはその戦争の無意味さというものをすでに突き抜け、それを無に帰してしまっているのだ。

 そんな彼らを動かす最大のものは性のエネルギーである。性衝動に突き動かされて彼らは無鉄砲な行動をする。
 この作品の前まで岡本喜八はそのような戦争の無意味さを超える、あるいは突き抜けるものとして“愛”を念頭に置いていたのではないかと思う。『斬る』の組長も『赤毛』の権三も“愛”のために死ぬ。そして、それはこの作品の十太夫にまでつながっている。
 しかし、千太と万次郎が抱えているのは愛ではなくあくまでも性衝動なのだ。それは下卑た猥雑なものではあるが、人間にとってもっとも本来的なもののひとつであり、大きなエネルギーの源となるものであることも確かだ。それはどう考えても“愛”というような奇麗事よりも大きなエネルギーを持ち、戦争や殺し合いの無意味さを突き抜けるにふさわしいものであるように見える。
 この映画に一貫して下ネタというべき下品なギャグがちりばめられているのは、その下品さにこそ庶民のエネルギーの源があるのであり、それは決して卑下すべきものではないといいたいがためなのではないかと思う。人々はそのようなエネルギーを下品で野蛮なものとして抑圧してきたがために、自分とは無関係な権力者たちの戦いに巻き込まれても、それに抗うことが出来なかったのである。その性のエネルギーを解き放てば、そんな権力者にも立ち向かうことが出来る。そんな妄想じみた考えが岡本喜八にはあるのではないかとこの作品を観ながら思った。

Database参照
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監督順: 
国別・年順: 日本60~80年代

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