透明人間
2005/6/30
The Invisible Man
1933年,アメリカ,70分
- 監督
- ジェームズ・ホエール
- 原作
- H・G・ウェルズ
- 脚本
- R・C・シェリフ
- フィリップ・ワイリー
- 撮影
- アーサー・エディソン
- 出演
- クロード・レインズ
- グロリア・スチュワート
- ウィリアム・ハリガン
- ウナ・オコナー
- ダドリー・ディッグス
ある夜、雪深い山間の宿屋兼酒場にやってきたサングラスに包帯の男、無愛想に部屋を借り、人を遠ざけるその男の体は実は透明だった。元に戻るクスリを開発するために部屋にこもる彼は、その研究を邪魔されることに腹を立て、暴力を振るって警察を呼ばれた。怒り心頭の彼は人々の目の前で服を脱ぎ、包帯を取って透明の体をさらして逃げ出したのだ…
H・G・ウェルズ原作の「透明人間」の初の映画化。『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』と並ぶ古典的ホラーの名作で、透明の体を表現した特撮は当時としては画期的なものだった。
これだけ何度もリメイクされている古典だと、見る前にすでに大体のところはわかっていると思ってみ始めるわけだが、まず意外なことにこの物語はジャックがすでに透明人間になって、すでに一ヶ月ものつき日が過ぎたところから始まるのだ。そして、透明人間になる薬を開発した過程やどのように透明になって行くのかという過程はさらりと言葉で「一ヶ月注射し続ける」などといわれる以上に説明されない。
つまりこの物語は、透明人間になることの物語ではなく、透明人間であることの物語なのである。しかも、透明であるということよりも、副作用として表れる攻撃的な性格の方が物語を展開して行く上で重要な意味を持ってくるのだ。こうなってくると透明人間であるということは主題ですらない手段になってしまう。つまり、透明人間であるジャックとは、透明になると同時に攻撃的になった男であり、透明であること自体が問題なのではなく、そのような男が透明であるという武器を持っているということが問題だということになる。
そのあたりでどうもこの映画はまとまりがない印象を与えるのかもしれない。確かに透明人間を見せる特撮は70年前としては見事なものだし、追いかけっこにはスリルがあるし、どのように透明人間を捕まえるのかというサスペンスにも魅力がある。しかしそれがジャックという人間となかなか結びつきにくいのだ。だからフローラなんて恋人を登場させているにもかかわらずドラマ的な部分が完全に欠落してしまっている。
透明人間が恐怖の元になるためには、そこに攻撃的な性格なり、悪意なりが付随していないといけないとは確かで、だから薬の副作用として攻撃的な性格になるという要素が付け加えられたのだろう。しかしこの物語では善人だったジャックが悪人になったということの効果がまったくない。たとえばジャックが善たる自分と悪樽自分の間で苦悩したりということはまったくないのだ。したがって、薬によってジャックという人格は完全に押し殺されてしまうことになってしまう。だから、フローラがいくらジャックのことを思い、ジャックを信じようとしても、薬の支配下にあるジャックにはその思いは届かないということが観客にはわかったしまうのだ。だから実際のところフローラの存在はまったく意味がないし、教授の存在も特に意味はないのだ。
心理的な葛藤などを抱える人間が誰もいないがためにこの作品はどうもぺらぺらな印象でB級映画の域を出ることが出来ないのではないか。まあ映画史上最初のB級映画の巨匠ともいえるジェームズ・ホエールの作品だけに、それも賛辞になりうるのかもしれないが、古典映画というにはあまりにドラマの底が浅いという気がしてしまう。
もちろん、この作品の特撮技術や恐怖の演出の仕方などが後世の映画に与えた影響が大きいことは確かだが、だからと言ってこの映画が面白いということには必ずしもならない。