女の四季
2005/7/1
1950年,日本,100分
- 監督
- 豊田四郎
- 原作
- 丹羽文雄
- 脚本
- 八住利雄
- 撮影
- 木塚誠一
- 音楽
- 飯田信夫
- 出演
- 若山セツ子
- 杉村春子
- 池部良
- 薄田研二
- 藤原釜足
- 赤木蘭子
- 伊藤雄之助
- 堀越節子
- 渡辺篤
- 東山千栄子
- 千石規子
大陸から引き上げてきたばかりのマキは住む家を求めて恩師逆瀬川画伯の下を訪ねる。逆瀬川はマキが滞在することを喜び、マキは元の職場で仕事も見つけて喜び勇んで戻ってくるが、画伯の妻の嫉妬に触れてマキは追い出されてしまう。会社に泊まった翌日、親切にしてくれる上司の紹介でおその婆さんという人がやっている貸家に何とか部屋を見つけるが、この婆さんがとんでもないごうつくばばあで…
戦後の混乱期を舞台にした丹羽文雄の「貸間の情け」を豊田四郎がユーモアいっぱいに映画化。見ているだけでいらいらするようなごうつくばばあを演じた杉村春子が見事。
この物語の主軸になるのは主人公の若山セツ子演じるマキ(萬亀)と杉村春子演じるおその婆さんの関係である。マキは徹底的に他人を信じる人間で、おその婆さんを信じては裏切られるということを繰り返す。おその婆さんはそれに乗じてどんどん付け上がっていきマキから何もかも取り上げてしまうという感じになって行く。しかし、決してマキがお人よしというわけでもおそのが人でなしというわけでもない。マキは婆さんにいいようにやられていることはわかっているのだが、部屋のためには仕方ないと我慢しているということになっている。
その辺は、まあいいのだが、このマキは一生懸命部屋を探している様子もなく、恋に至るのかと思われた池部良演じる水島との関係も微妙だし、「絵が描ければなんでも我慢できる」と言っているわけにはそれほど絵を描いているようでもないというなんとも微妙なキャラクターで、このマキを中心に物語を追って行くと、どうにもまとまりがないように感じられてしまう。それはわれわれが当時の住宅事情の厳しさを身をもって知らないためだろうか? 部屋を探すということだけでひとつのドラマが組み立てられるほどに、部屋の問題というのは切実だったのだろうか? と、想像を膨らませるしかないので、どうも今ひとつしっくりと来ないのだ。
なので、どうしても別の見方を探してしまう。そして、そうなると物語の中心になるのはおその婆さんということになって行く。マキの立場から見ると、いかんともしがたいどうにもいらだたしいババアなわけだが、しかしこの婆さんはただ欲に駆られて行動しているだけなのだろうか?
(ここからはラストまでのネタばれを含みます。結末がわかったところで、映画の面白みが減るような映画ではないですが、気になる方は読まないでください)
この映画の終盤でおそのは甥に裏切られたと言う。つまりおその婆さんは甥と2人で出て行って、結局甥に裏切られてしまったというわけだ。これが意味するのはいったいどのようなことか。単純に甥の方が一枚上手だったということだろうか(確かに金に対する執心という意味ではおいも相当なものだったように見えるが)? 私はそうではないと思う。おその婆さんは確かに金に執着してはいたが、それはただ業突く張りの欲深い人間だったからではない。彼女はおそらく、貸家の持ち主である馬場さんという家で女中か何かをしていて、主人たちが疎開して行ったあとその家に入り込んで勝手に貸家をやっていたということなのだろう。そこから見えてくるのは、彼女が一人で孤独に生きてきた人間だということだ。金に執心するのも一人で生きて行くために必要なことだからなのだ。そして、マキに執拗に意地悪くするのは、人と関わりを持つための手段なのではないかと思うのだ。もちろんそれはひねくれたあり方ではあるが、孤独なおその婆さんは何とかして人と関わりを持っていたいと思っていて、それが意地悪という形で表に出てしまっている。それがこの映画の構図なのではないかと思うのだ。
元来、人を信じ、人と真心で接するマキはそのようなおその婆さんの気持ちをなんとなく感じ取っている。だから、おその婆さんのことは無碍にはしない。もちろん、自分のことの方を優先するが、おその婆さんを警察に突き出したりはしないし、立退き料を盗られても文句ひとつ言わないのだ。
そして最後にはおその婆さんの方も、そんなマキに付け入るようなことをするのをやめる。そんな微妙な心理の行き来がこの映画のラストには表れているのではないか。
誰もが生きるので精一杯だった時代、というと陳腐に聞こえるし、実際に経験してもいないのにわかるわけはないのだが、しかしそんな時代にこそ人と人が心を触れ合い、人間らしさを取り戻す。そんなことが必要なのだと感じさせてくれる。豊田四郎がヒューマニストだと呼ばれる所以はこんなところにあるのではないかと思う。