暗黒街の顔役
2005/7/22
1959年,日本,101分
- 監督
- 岡本喜八
- 脚本
- 西亀元貞
- 関沢新一
- 撮影
- 中井朝一
- 音楽
- 伊福部昭
- 出演
- 鶴田浩二
- 宝田明
- 草笛光子
- 三船敏郎
- 白川由美
- 柳川慶子
- 川津清三郎
- 平田昭彦
- 田中春男
- 佐藤充
- 中丸忠雄
- 天本英世
横光組の幹部の小松は以前に殺しの手伝いをした弟の峰夫が歌を歌っていると親分に言われる。小松は何とか説得してやめさせようとするが、峰夫は聞かず、別の幹部の黒崎は力ずくで峰夫をやめさせようとする…
若き岡本喜八がアクション映画の監督としての定評を得た作品。豪華キャストとフィルム・ノワール的な雰囲気が受けてシリーズ化され、4作品が作られた。
とにかく格好いいとしかいいようがない。鶴田浩二なんて別に格好いいと思ったことはなかったのだけれど、この作品の鶴田浩二は抜群に格好いいし、いつもは優男な感じの宝田明も格好いい。そして、工場のオヤジに扮した三船敏郎に極めつけは佐藤充。彼らの格好よさがこの映画の全てだろう。
物語なんてたいしたことはない。というか、結局どんな話なのかいまいちよくわからない。ヤクザという時代遅れの仁義の世界の斜陽を描いているのか、それとも兄弟や親子の絆というようなものを描いているのか、子を持つ親は強いのだということは言っているような気がするが、それがこの映画に決定的な意味を持つとも思えない。
だから、この映画はやはり格好よさが全てのアクション映画なのだ。単純に格好よければいい、そんな映画もあっていい。
この映画が格好いいのは、もちろん第一には役者たちの活躍があるわけだが、彼らが他の作品よりも格好よく見えるというのはやはり演出のうまさがあるということなのだと思う。その演出のうまさというのは、映画の見せ方、役者たちの見せ方ということである。それは、次へ次へと観客を引っ張って行くハラハラ感によって観客を映画の世界へと引き込んで行く技術である。
プロットはたいしたことはなく、物語の展開がどうなって行くのかということにはそれほどのスリルはないから、物語で観客を引き込んで行くということはない。しかし一つ一つのシーンの中で、次の瞬間に何が起きるのかと考えさせ、あるいは「何かが起きるのではないか…」と予感させるその技術によって観客を引き込むのだ。
もちろん、映画を見ているとついつい引き込まれてしまうので、具体的にどのような技法によってそのようなスリルを演出しているのかを注意深く見るというのは難しい(そんなことに気をとられると映画の面白さが手から逃れてしまうような気がする)。しかし、映画がまだ暖まる前にそんなスリルを演出するシーンがひとつあった。それは、小松が親分に峰夫を何とかするようにといわれて、外に出て車に乗り込もうとする場面である。この場面でカメラは確かややローアングルから車と小松を捉えている。そのアングルからは車の中はまったく見えず、そのために小松がドアに手を触れようとするとき、「何かが起きる!」という予感が背筋を走る。まさか車が爆発するということはないだろうが、車の中に何かがまっているという予感がするのだ。実際には親分の女であるリエが助手席に乗っているというだけなのだけれど、そのように観客に何かを予感させ、ハラハラ感を味あわせるという技法がそこには使われている。
この作品にはそのような技法が使われている部分が数多くある。目立つのはローアングルで脚越しに風景が映るというシーン、脚だけが映ることによってそれが誰なのかという憶測が働き、それだけで観客は引き込まれる。
たいしたことはない物語なのに、なぜか引き込まれ、スクリーン上の人々が格好よく見えてしまう。アクション映画とはかくあるべきという映画。まあ、もちろんヤクザの世界を描いているのに、こんなに善悪がはっきりしてるっていうのもどうなの、と思う部分はあるが、そんな意味論はどうでもよくなる映画である。